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『エド・ウッド』“史上最低の映画監督”の監督作は本当に最低なのか?

(c)Photofest / Getty Images

『エド・ウッド』“史上最低の映画監督”の監督作は本当に最低なのか?

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エド・ウッドのデビュー作『グレンとグレンダ』



 エド・ウッドの監督デビュー作『グレンとグレンダ』(53)。『エド・ウッド』劇中でも語られている通り、元々は性転換をカミングアウトしたことで、多くの性同一性に悩む男性に希望を与えたクリスティーン・ジョーゲンセンをテーマに、下世話な興味本位の覗き見根性を刺激して客を呼ぼうという、今なら「炎上商法」と言わるたぐいの企画である。


 しかし、エド・ウッドは端から性転換には興味が無く、グっと自分に引き寄せ「女装趣味の男」にテーマを変えてしまう。この『グレンとグレンダ』こそ、ティム・バートンを始め、タランティーノやジョン・ウォーターズ、デヴィッド・リンチらをして「エドウッド好き」を公言させている作品である。



『エド・ウッド』(c)Photofest / Getty Images


 本作の魅力は、あまりにも主観的過ぎる抽象表現と比喩そのまんま表現の混在具合であろう。


 映画が始まってすぐ。立派な書斎の真ん中に正装の老人(ベラ・ルゴシ)が座っている。


 「用心せよ。用心せよ。巨大な緑のドラゴンがドアの前で待ち構えている。小さな子供を…… 子犬の尻尾を、太ったカタツムリを食べるぞ。用心せよ。くれぐれも、用心するのだ。」


 「子犬の尻尾」「太ったカタツムリ」はマザーグースのわらべ歌「男の子って何で出来ているの?」の一節で、それぞれ「男の子」の“原材料”として挙げられているのもだ。

つまり、正装した老人がヨーロッパ訛りの威厳のある調子で、わらべ歌を朗読しているのである。このオープニングの奇妙な演出ひとつ取ってみても、エド・ウッドの非凡さが計り知れるだろう。


 後半、女装癖のあるグレン(演じるのはエド・ウッド本人)が、フィアンセのバーバラ(演じるのは当時のエド・ウッドのパートナー、ドロレス・フラー)に、自分の趣味を告白するかを思い悩む場面。


 グレンの女装癖がバーバラの“重荷”になるだろうという思いを、巨大な大木がバーバラの上にのしかかり、女装したグレンがその大木をどかそうとするが動かせず、スーツ姿のグレンが現れ大木をヒョイと持ち上げることで表現する。直裁…… と言えば聞こえはイイが、ありていに言えば常人なら思いついてもやらないほど幼稚な表現であろう。


 また、ストック・フッテージ(今で言えば版権フリーの動画素材)の多用もエド・ウッドらしい手法だ。街の風景などはまだ真っ当な使われ方をしているが、バッファローの暴走や鉄を精製している製鉄所の場面など、会話や状況に合っているのか、はたまた深い意味があるのか、完全に観客を突き放した演出である。


 これら、非常に解りやすい表現と、皆目検討もつかない場面が、混じり合わずにマーブル状に混在しているのが『グレンとグレンダ』なのである。


 映画は芸術のジャンルであり、感性やセンスこそが傑作を生み出す。と、思われているだろう。確かにそんな側面もありはする。しかし、一方で長い歴史の中で練磨された演出技術もあり、それらはクリシェ(常套手段)と言われるものだ。映画について真面目に勉強していれば、どうしたって“クリシェ”は身についてしまう。それらを使えば、真っ当で解りやすい作品になるだろうが、それは同時に極めて凡庸な作品でもあるという意味だ。


 一方、エド・ウッド監督作からは映画表現について勉強した痕跡はほとんど見受けられない。誰もやらないような幼稚な表現や、どう解釈すれば良いのか解らない場面に溢れている。


 しかし、逆に言えば。誰もやったことのない表現や、見たことも聞いたこともない新しい場面に溢れているとも言える。


 それが功を奏しているかは、また別の話として。



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