役者が演じる“余白”を脚本に残す
Q:大森監督への愛が伝わってきます(笑)。そんな吉村さんに、大森さんの書かれる脚本の魅力をぜひ、具体的にお聞きしたいです。
吉村:やっぱり映画監督だから、撮る前提、演出する前提で書いてくれるんですよね。そこがまず、全く違うと思います。監督と脚本が一緒だから、コミュニケーションも円滑ですし、とにかく楽です(笑)。
あと、原作が大事にしているところを拾い上げてくれるから、原作者と揉めることがない。多少の手直しはありますが、骨格の部分で「根本的に違う」みたいになることは全くないです。同じ原作者さんでも、他の作品ではなかなか脚本にOKを出せなくて、最終的に企画が通らなかったという話も聞くので、余計に大森さんの筆力を感じますね。
大森:原作者の方と揉めたことは、一回もないですね。
吉村:ちなみに、『星の子』の脚本は、原作の今村夏子さんからもほぼ一発OKでした。原作と骨格は同じだけれど、形式は違うから、嬉しかったですね。
本作は、原作が主人公のちひろの独白形式になっているけど、大森監督の意向で、映画ではモノローグを入れていないんですよ。原作以上に、ちひろ(芦田愛菜)がどういう女の子なのかがわからない作りになっている。でもそれは、ここに俳優という“人間”が入ってきたときのことを想定しているからなんです。
それと、オリジナルのシーンもありますよね。今回でいうと、保健室でちひろが先生(大谷麻衣)と話すシーンなどは、物語としても重要な部分ですし、好きなんです。
Q:大森さんは、一人称の小説を三人称に変換することへの、大変さは感じましたか?
大森:とくにはなかったですが、一人称の原作を渡されるとちょっと焦りはします(笑)。
やっぱり、映像の力って強いんですよ。目に入ってくるイメージがあって、役者さんの身体があって、そこでモノローグも入れると情報過多になっちゃう。
だからどちらかというと、芯を削っていく感覚がありました。一人称のモノローグを使わず、画の力と俳優が発する情報で、どう作っていくかを考えましたね。
Q:たしかに、大森さんの脚本には、先ほど吉村さんがおっしゃったとおり、役者が動けるための“余白”が残されているように感じられます。
大森:『星の子』だったら、芦田愛菜さんとお会いしたときに、「背が小さいな」と感じたんです。彼女の目線はどんなものだろう? どんなふうに世界を見ているのか? きっと、周りを見上げてしゃべるだろうなとか、そうした役者の身体性に合わせて調整はしていきましたね。
Q:そういうバッファも考えて、脚本に余白を作っておくんですね。
大森:そうですね。あと、ひとつ思うのは、「こう演じてください」みたいに書きすぎちゃう脚本がちょっと多いかなということ。スタッフとか色々な人に「このシーンはこういうもので……」と“説明”する意味で事細かに書いてしまう場合もあるだろうから、理解はできるんですけどね。
でもそういうものだと、演者さんが気にして「これ、どういうこと? わかんないんだけど」みたいになるんですよ(苦笑)。
Q:役者さんの自由を奪ってしまうというか……。
大森:それでキャスティングが上手くいかなかったという話も、よく聞きますよ。役者さんはやっぱり、常に高いレベルを求めているものだから。
だから誰に向けて書くのか、を明確化しないといけない気はします。想像力を働かせるべきところも、ちゃんと入れられたらいいですよね。