作家性は他者が決めること
SYO:行定さんはいかがですか。
行定:作家性という話で言うと、僕も自分が作家だと思ったことはないです。作家性を自分で語っている人たちって、なんかダサいなって思う。だって作家性は他者が決めることじゃないですか。
SYO:それは凄く分かります。僕らライターも質問をする時に、ご自身の作家性を聞くのは申し訳ないと思います。
行定:多分みんな自身の作家性についてほとんど分かっていない。「俺の作家性が許さないんだよ」みたいなことで、トーンを明るくするべきなのに暗くしてしまうとか、それはおかしいですよね。だから作品作品において、みんな絶対違う顔がある。
僕としては原作を元に映画化することと、オリジナルでやることはあまり変わらないんですよ。オリジナルの方が楽なだけ。アジアの映画監督とかによく言われるのが「なぜお前は原作モノしかやらないのか、それにインスパイアされたオリジナルをやればいいじゃん」ということ。漫画を読んでインスパイアされて、新しいアイデアでオリジナルといってやればいい、その方がもっと面白くなるだろうと。
原作があると、変えてはいけない部分がある。それでも僕の場合は、そことどう折り合いをつけるかやってきた。だから自分が手掛けた原作モノは、ほとんどが映画と原作でラストシーンが違う。それはなぜかというと、そこに導かれたから。でもそれは作家性ではない。本広さんと一緒で、お題をもらってそこから何が出来るかという話なんです。
自分の作家性で縛られるのはものすごく嫌ですね。なぜか僕にはラブストーリーの仕事ばっかり来るんですよ。なんでアクション、バイオレンスは来ないのか、撮らせてみようと思わないのかなと。一回成功したジャンルがあると、この人はこれが上手だと考える。何かに追従しているんです。それは作家性とは言わないですよね。
またそれだと、監督自身が歪んでしまうんですよ。ちょっとした冒険をして批判の的になったらその人は二度とその世界を撮れない。ひょっとしたら次は凄かったかもしれないのに。映画の歴史的にもそういうことは起こっているんです。
オファーされるというのは嬉しいことなので、映画監督たちはちゃんとそこに向き合おうとするんですよね。企画者の意図を凌駕したものを作ろうとするはずだから、それをやり続けるとずっと同じようなテイストのものをやり続けなきゃいけなくなる。それは幅を狭めていきますよね。
本当は才能を使って違うものを作り出せばいいのにと思うんです。だから若い人たちと出会うと「あなたはこういうところが良いから、それを裏切る全然違うものをやった方がいいよ」と常に言っています。自分もなかなかそれが出来なくてこれまで苦労してきたので。
内田くんとか藤井くんの映画は、僕の想像するものと違っていて面白い。リスペクトしていますね。