映画と小説、創作のアプローチ
Q:日本では、監督が30年前に発表された小説集「鹿川(ノクチョン)は糞に塗れて」も邦訳されました。そもそも映画監督になる以前、なぜ小説を書き始めたのでしょうか?
イ:私は小さい頃から、落書きをするように文章を書いていました。きっと、誰かとつながりたいという欲望があったんでしょう。私は戦後、誰もが苦しい生活を送っていた時代に育ち、家庭の事情で幼少期は引っ越しも多かったので、周囲にうまく馴染めませんでした。7歳年上の姉は脳性麻痺で、いつも周りにからかわれていたので、私はそういう子どもたちともよく喧嘩をしていた。だから、常に疎外感があったんです。
そんな寂しさの中、顔や名前も知らない、しかし自分と同じ考えや気持ちの人々と意思疎通を図りたいという欲求があり、それが私に文章を書かせたのだと思います。それが作家への道につながり、のちに映画監督になる下地となった。今でも映画をつくるときは、観客の皆さんとコミュニケーションを取りたいと考えています。今後どんな映画をつくるにせよ、再び小説を書くことがあるにせよ、そのことは変わらないでしょうね。
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Q:小説から映画まで、監督はいつも、登場人物とその周囲にある環境を丁寧に見つめています。特にどの作品でも都市空間が印象的ですが、社会や時代を反映するものとしての都市に関心があるのか、それとも都市そのものに魅力を感じているのでしょうか?
イ:私自身は、「この映画は都市で撮ろう」とか「この作品は農村や田舎がいい」といった空間の区別はあまりしていないつもりです。今おっしゃったように、私の関心は映画の登場人物と、その人々を取り巻く空間にありますから。とはいえ、韓国の人々や空間を撮る以上、おのずと都市化・都会化された空間を見せることになりますね。
それでも自分で空間を選ぶ際は、この場所を映画的に格好良く見せてやろう、特別な空間にしよう、ということは一切考えません。登場人物の人生そのものを描くときには、今の韓国の人々が自分の人生を生きている、その空間をありのままに見せたいと考えています。観客の皆さんに「これは作り物の構図だな」と思われないよう、空間自体にあらかじめ備わっているものを――自然の、ありのままの姿を画面に映したい。そうすることで、むしろ映画的に伝わるものがたくさんあると思うのです。