放送は終わらない

裸一貫でストーカーを撃破していくベンの姿に、いつしかスタジオの観客も彼を応援し始める。屋外のディスプレイで中継を眺めていた労働者たちもベンに賭け始め、番組の空気が少しずつ変わっていく(誰がどんな場所で番組を観ているかで階級が示されるのもおもしろいところだ)。キリアンの思惑が外れ、潮目が変わる瞬間である。
ベンたちはゲームコースから脱出してレジスタンスとの合流を果たす。アンバーはベンが虐殺犯に仕立て上げられた音声記録のオリジナルを持ち出しており、それを組織に渡す。一方、番組では前述のキャプテン・フリーダムによってベンとアンバーが処刑される偽映像が流され(安らかに眠れスタント)、ショーは「終了」したことになってしまう。
むしろそのおかげで自由に動けるようになった本物のベンたちは、レジスタンスとともにテレビ局へ潜入する。死んだはずのランナーたちが画面の外から現れ、さらに電波ジャックによって「ベン・リチャーズによる市民虐殺」の真相が放送されたことで、観覧客と視聴者は真実を知る。キリアンの番組が作り上げてきた物語は崩れ去った。今度は追い詰められた司会者自身がショーの舞台に立たされることになり、この手の娯楽作品の悪役にぴったりな痛快な最期を遂げる。
しかし、キリアンの爆死がこのディストピアの終わりを意味するわけでは、必ずしもないだろう。番組の嘘が暴かれ、ベンの潔白が示されたとしても、それでこの世界の仕組みが消えるわけではないからだ。なんと言っても、キリアンを見限り、ベンに声援を送るようになった大衆の心理は本質的にはなにも変わっていない。求めるものがストーカーによるランナーの処刑から、ランナーによるストーカーの撃退へと置き換わったに過ぎない。またレジスタンスにしても、まずはキリアンを倒すために真実を広めはしたが、そのあとはどうなるだろうか。放送局を掌握した彼らはもちろん放送を強力な手段のひとつとするだろうし、正しい使い方をしてくれるかもしれないが、それでも映像を通して大衆を導くという構図そのものはキリアンのそれと変わらない。
人々は確かにキリアンや当局の嘘に怒りを露わにはしたが、主体的に反旗を翻したというよりは、一貫して映像を通して知ったことに左右されたに過ぎない。彼らは最後までテレビのフレームの外側には出ておらず、結局は次の映像を待つ視聴者のままなのではないか。
レジスタンスがそのまま優勢になるとも限らない。体制側が武力をためらわないことは冒頭から示されているし、圧倒的な力で反乱があっさり鎮められる可能性もある。あるいは第二のキリアンが用意され、また別の娯楽番組が始まるのかもしれない。もっとも、それさえ必要なくなる可能性もある。テレビによるガス抜きが通用しないなら、ショーそのものをやめてしまえばいいからだ。
もちろんそんなことはぼくの想像に過ぎない。またこういうスタイルの作品に必要以上な深読みは野暮というものかもしれない。しかし、ベンが身ひとつでストーカーを倒していき、悪党がきっちり報いを受けるという分かりやすい爽快さがあるからこそ、自然と余白(あるいは隙)が目につく。筋肉がものを言う娯楽作というフレームの中で、視覚メディアの力や偽映像、大衆の気まぐれさといった普遍的な原理を見抜いた鋭さが、その余白に冷たさを与えているのだろう。だが語りはあくまでベンの視界の範囲に限られる。結局のところ、これはただランニングマン、逃げる者の闘いの物語なのである。
イラスト・文:川原瑞丸
1991年生まれ。イラストレーター。雑誌や書籍の装画・挿絵、絵本など。映画のイラストレビュー等も多数制作中。