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『太陽を盗んだ男』を放った、ゴジと呼ばれた男【そのとき映画は誕生した Vol.4 中編】
消えたクライマックス
城戸が原爆を奪還し、刑事たちが追う。ここからは完成した映画でも見せ場となったカーチェイスである。しかし、初期脚本の時点ではまとまっていなかったようで、「第二稿で詳述される」と、省略されている。
映画にないシーンとしては、カーチェイスの後、城戸は京王線の新宿駅から調布行き各駅停車に乗り込む。山下警部は駅長に指示して、その列車を桜上水駅までノンストップ運行に変更させる。停車駅にパトカーを集結させ、そこで城戸と原爆を捕獲する作戦である。桜上水が選ばれたのは、当時、長谷川が住んでいた3LDKの公団住宅があったからだろうか(2,500万円で購入したという)。
あだしごとはさておき、ノンストップ列車がカーブで速度を緩めたときに、城戸は原爆を手に飛び降りる。地面に叩きつけられながらも、ゼロが待つホテルの一室へ帰って来る。そして、城戸は山下警部へ最後の要求を行う。それは自分に関する全ての情報を世間に公表することだった。つまり、東海村からプルトニウムを奪った男がおり、その男は現金を要求したが失敗した――この事実を明らかにせよというのだ。
山下は、その要求を受け入れることは不可能だと答える。すると城戸は、それによって善良な市民が何十万、何百万と失われても構わないのかと問いかける。山下は、「子供と人間を殺すには、強い信念が必要なんだ。オマエの心の中にはそういう信念のカケラもない」と突き放す。城戸は、自分の信念を見せてやると誓う。
そして、ゼロを連れて市民プールへやって来た城戸は、金属プルトニウムの粉末が入った鉛の小箱を水中に投げ入れる――。
この場面については後編で詳しく見ていくが、映画の存亡にかかわる大きな問題となってのしかかってくることになる。
『笑う原爆』のクライマックスへ急ごう。城戸と山下の一騎打ちである。映画ではローリング・ストーンズの公演に犯人が来ると見越して山下警部らが周辺を警戒していると、城戸が話しかけてくる。このとき、会話の内容から、ようやく山下は犯人が城戸であることに気づく。
このきっかけが脚本では異なっている。プールから逃げた城戸は、髪を切って五分刈りになり、警官の制服に着替える。制帽を目深にかぶり、原爆が入ったバッグを手に山下のいる庁舎の部屋へ向かっていく。
一方、山下は市民プールでの急報を聞き、飛び出そうとしたところで、机の上に積まれた書類の山から、バスジャック事件の記事が目に留まる。そして、ようやく、城戸が犯人であることに気づく。その記事を手に廊下へ急ぎ足で出たところを、警官姿の城戸に拳銃を突きつけられる。原爆はこのビルに隠してあると告げた城戸は、山下を屋上へ連れていく。以降の展開は、ラストシーンまで映画とほぼ変わらない。死んでも死なない死闘が演じられることになる。
ことほどさように、『笑う原爆』の時点では、クライマックスに日本武道館も科学技術館も登場することはなかった。ローリング・ストーンズの扱いが脚本から変化したことで、城戸と山下の対決にも影響が及ぶことになったわけだ。現実的にストーンズを呼ぶことが出来ないことから設定が変更されたのだろうが、沢田研二がその間の事情を次のように語っている。
「やっぱりいろいろ問題があったみたいでね。もっとドギツクやる予定だったのね。なにか、マリファナとかそうゆうの全部用意してね。ストーンズをむかえろ、ということを言ったりとか、国会を衛星中継して、それじゃあってことでストーンズから電話が入る、テレックスが入るということを考えたんだけど、それはあんまりやりすぎだろうということになってね」(『定本ストーンズ・ジェネレーション』)
上映時間も予算も無視した『笑う原爆』の脚本を読めば、映画では描写不足、荒唐無稽と思われた場面の大半が丁寧に説明されており、完成した『太陽を盗んだ男』では、予算や上映時間の関係で、意図的にそれらの説明描写を省略――というより省かざるを得なかったことが理解できる。
では、当時、『笑う原爆』の脚本を読んだスタッフ以外の第三者はどう感じたのだろうか。1979年6月号の『Mr.ACTION!』で長谷川と対談を行ったノンフィクション作家の沢木耕太郎は、脚本を読んで、こう指摘している。
「オレが気になったのは『笑う原爆』には予定調和的なところが多すぎるんじゃないかってことなんだ。『青春の殺人者』には予定調和的な部分がわりと少なかったような気がする。ところが、これは先が読めちゃうんだ。脚本自体、十分面白いけど、予定調和ってことからいうと気になる。別の緊張感が一本走ってないとヤバいんじゃないかと思う。壮大な失敗作になるよりも、小さな成功作になっちゃう危険性があるんじゃないだろうか」
沢木の指摘は、脚本と映画の関係を考えるうえでも鋭い。実際、筆者は映画では描写不足、荒唐無稽と思われた場面の大半が脚本では丁寧に説明されていると記したが、逆に言えば説明過多に思える。もっとも、脚本は読み物ではなく、スタッフに向けた撮影現場の設計図だけに、誤読されないよう意図的に丁寧に書く場合もあり、これだけでまだ撮影していない映画を語ってもらいたくない気持ちも長谷川にはあっただろう。沢木の指摘を受けて、こう返している。
「構造としてできあがったものを、絵、映像の部分でどうこわしていくかってことだな。図式的なストラクチャーを、自分で納得できる映像作りをするなかで、どうやって超えていくか、そこが勝負になると思うな」(『Mr.ACTION!』前掲号)
事実、撮影が始まると、長谷川は完成度の高い脚本に依存することなく、映像と演者の力で破壊を試みていくことになる。それが歪さを持つ傑作を生むことになるが、この時点では長谷川もまだ映画の完成形を掴めてはいない。