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『太陽を盗んだ男』を放った、ゴジと呼ばれた男【そのとき映画は誕生した Vol.4 中編】
菅原文太と沢田研二
当初、1978年にクランク・イン予定だった『笑う原爆』は、予算、配給など、未決事項が多く積み重なっていたが、唯一の明るい話題は、メインキャストが内定していたことだった。
自宅アパートで原爆を作る中学の理科教師・城戸誠は、〈無名の新人〉が長谷川の理想だった。しかし、若者役なら新人を抜擢することが可能だが、29歳と設定していたため、その年齢で魅力的な〈無名の新人〉を探し当てることは難しい。
一方、城戸からの挑発を受けて立つことになる山下警部役について、レナード・シュレイダーは三波伸介か伴淳三郎を想定していたが、長谷川は「日本では高倉健と菅原文太ぐらいしかいないでしょう。渡哲也は若すぎるしね」(『キネマ旬報』79年10月下旬号)と、最初からイメージキャストが固定していた。
高倉には実際に出演交渉が行われたが、『太陽を盗んだ男』の録音を担った紅谷愃一は、「結局、健さんに断られて、文太さんになったんです。ただ、健さんがやったら、現場がうまくいったかどうか」(『音が語る、日本映画の黄金時代 映画録音技師の撮影現場60年』)と語る。
後で触れるように、スケジュールが大幅に遅れ、さらに演技にも細かな注文をつける長谷川の現場では、高倉が出演したとしても、衝突があったのではないかという危惧である。
高倉から断られたことで、長谷川は5年ほど前から新宿ゴールデン街で飲み仲間だった菅原文太へ直接交渉したところ、快諾を得た。当時、盆と正月の「トラック野郎」シリーズが絶好調のドル箱スターだった文太は、その勢いで『ボクサー』(77)を自ら企画し、監督に寺山修司を招いて東映で製作するなど、意欲的な活動でも知られていただけに、〈原爆作りの映画〉に、たちまち嗅覚を発揮して加わった。このとき、城戸役を誰が演じるべきかに悩む長谷川に、文太は、「そらジュリーぐらいでいかないかんやろ」(『平凡パンチ』79年10月8日号)と進言した。
1977年から79年にかけて、ジュリーこと沢田研二は絶頂期にあった。『勝手にしやがれ』『サムライ』『カサブランカ・ダンディ』など、代表曲が次々に発表された時期にあたり、毎回趣向を凝らした奇抜な出で立ちも話題をあつめた。しかし、映画出演は少なく、超多忙な人気スターを映画に引っ張り出せるかどうかは未知数だった。
かつて沢田が主演した連続テレビドラマ『悪魔のようなあいつ』(75)の脚本を担当していた長谷川は、感触を確かめるために、まずは事務所を通さず、地方のコンサート会場まで出向いた。これまでも酒席を共にしたことがある仲だったため、コンサート終了後、朝まで沢田と飲み明かした。長谷川によると、沢田は「ダイナマイトやったらツマランかもしらんけど、原爆ってのがええやないですか」(『平凡パンチ』前掲)と、乗ってきたという。
しかし、事務所が出演を了承するかは別である。この時期の沢田は渡辺プロダクションに所属しており、その交渉は困難を極めた。前掲の『平凡パンチ』から沢田の発言を抜粋すれば、「原爆作るというヤバイ話だから、考えたほうがいいとか、長谷川和彦と浪花節でやろうとしてんじゃないかとか言われたけど、そんなオコガマシイことは、ね」「ボクは31になるまでに映画をやりたいと思ってたし」と語っており、沢田自身がやりたいと強く主張したことで、事務所を動かしたようだ。
文太も、「名うての難攻不落のナベプロ(引用者注:渡辺プロダクション)から、70日のスケジュールかちとるのは、ヤワなことじゃないからね。プロサイドの関係者は、最初は信用しなかったからね。それを突破したんだから」(『平凡パンチ』前掲)と、驚きの声をあげる。
もっとも、文太と沢田のスケジュールを擦り合わせていくと、撮影開始は1年後の1979年まで待たねばならなかった。
撮影開始までに1年の猶予が生じたことで、脚本をじっくり練り上げる時間がもたらされたが、長谷川のもとには、別の企画も続々と持ち込まれていた。1978年秋には、東映配給、セントラル・フィルムの製作で小林信彦原作の『唐獅子株式会社』を映画化する話や、桑名正博主演でロサンゼルスに住む日本人の若者たちの夢と挫折を描く、レナード・シュレイダーが脚本を担う作品――長谷川の言葉を借りれば、「東京からロスへ武者修行にいったというか、まあ逃げていったミュージシャンの話」(『Mr.ACTION!』79年3月号)など、複数の企画を検討する時間にも充てられた。
一方、撮影開始までに長谷川が沢田に求めたことがあった。曰く、「芝居のことなんか何も考えないでいいと、要は主人公のマッドボンバーの肉体になってこいといってある。別にヘラクレスにならんでいいわけだ。自分で体をいじめて犯罪者の体作っといてくれればいい。基本的に、スタントは極力使わないでいこうと思っている」(『Mr.ACTION!』79年6月号)。
長谷川のイメージでは、主人公の城戸は、痩せた筋肉質の男だった。それを受けて、沢田は夜10時以降の夜食は取りやめ、ランニングで身体を絞った。もうひとつ、長谷川が求めたのは、運転免許証の取得だった。カーチェイスをはじめ、車を運転する場面が多くあるため、沢田は自宅近くの教習所へ早朝の時間を狙って通い、20数日で取得してみせた。
この時期の長谷川と沢田の姿を、1978年10月7日放送の『私のスター探検/第1回ハロー・グッドバイ 沢田研二vs長谷川和彦』(テレビ朝日系)が捉えている。ツアー中の沢田を、長谷川が密着するという内容で、コンサートの舞台袖や、福島から仙台の会場へ移動していく車の中で、2人が語り合う。当時、長谷川は32歳、沢田は30歳。歳が近いこともあり、監督と俳優、あるいは歌手というより、気のおけない仲間と語り合っているかのように見える(この番組の演出を担当した佐藤輝は、この年、テレビ東京のミニ番組『私…』で、沢田と長谷川をそれぞれフィーチャーした回も撮っている)。
ここで写された沢田と長谷川の関係性が番組のためのポーズではないことは、後年、長谷川が、「つきあいのとてもいいヤツで、よく明け方まで飲んだよ。思ってた以上に男っぽくて青っぽいんだ。飲むときは聞き手に徹しているんだけど、それでいて、つまらなそうにはしない」(『週刊平凡』82年2月4日号)と沢田について語っているところからも、表面的な関係ではないことがうかがえる。
とはいえ、飲み仲間を誘い込んで映画を撮ろうというのではない。人間関係だけでは映画撮影は乗り切れないと、長谷川は言う。文太もジュリーも、〈原爆作りの映画〉という危ない企画には乗ったものの、出演についての最終判断は、脚本の完成まで持ち越していた。つまり、彼らを納得させ得る脚本を書き上げなければ、映画は成立しないのである。
そして1979年2月、『笑う原爆』の脚本を読んだ主演俳優2人は、正式に出演を了承し、契約を結ぶことになる。