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『太陽を盗んだ男』を放った、ゴジと呼ばれた男【そのとき映画は誕生した Vol.4 中編】
プロデューサーたち
『太陽を盗んだ男』のクレジットでは、製作が山本又一朗(『MISHIMA』『クローズZERO』)、プロデューサーは伊地智啓(『セーラー服と機関銃』『お引越し』)となっている。ともに、80年代以降も大きな存在感を見せたプロデューサーである。
山本は20代前半で漫画家さいとう・たかをのプロダクションに入り、24歳で小池一夫とスタジオ・シップを設立。経営を担いながらTV版『子連れ狼』などをプロデュースした。29歳で独立し、映画製作へ進出しようとしていた。そして旧知のキティ・レコード社長・多賀英典を訪ねて、出入りするようになった。折しも、キティでは長谷川と村上龍による映画企画を始めようとしており、この作品のプロデュースを山本が担うことになった。そして、日活出身の伊地智啓が、有象無象の集団に唯一の映画プロパーとして加わることになる。
長谷川が、山本と最初に会ったときの印象を語っている。
「とにかくビッグマウスだなあ、と思った。(略)こんなホラ吹きみたいな、ヤマ師みたいな男が、この時代に存在してるってことが気味悪いぐらい印象に残った。ぼくもそういうふうだからね。これは同類相あわれむみたいなもんだね」(『ザ・メッセージ』)
まさに、長谷川も山本に負けず劣らず大言壮語を振りまくのだから、意気投合しないはずがない。しかしながら、前編でも記したとおり、長谷川と村上のコラボ企画は二転三転し、遅々として進展しなかったため、遂に山本はしびれを切らした。自著『ザ・メッセージ』で、山本はこう語っている。
「村上龍の忍耐は尊敬したが、その出来あがったシナリオが気に入らなかった。映画をつくるいじょう、できるだけたくさんの人に観てもらいたい、とぼくは考えた。ところが、シナリオはそういう仕上がりになっていない」
降板を宣言した山本は、それから半年かけて自分の企画を実現させる。それが、『ベルサイユのばら』(79)だった。池田理代子の原作漫画を、フランスでジャック・ドゥミを監督に立て、外国人俳優で作ってしまおうという、原爆を作る映画以上に、大ボラ吹きみたいな企画である。ところが、日本テレビ、資生堂、東宝を口説き落とした山本は、製作費10億円を調達し、ベルサイユ宮殿のロケまで実現させてしまう。
その剛腕ぶりには長谷川も舌を巻き、「また大ボラを始めたとしか思わなかったからね。その大ボラをともかく少なくとも誰にも損をかけない形で完成させたわけだから」(『キネマ旬報』79年10月下旬号)と、山本への認識を改めることになる。
山本が去った後、『笑う原爆』の脚本開発をサポートしていたのが伊地智啓だった。日活で助監督からプロデューサーへ転身し、その後、キティ・フィルムへ参加した伊地智は、長谷川とも日活時代から親しい間柄だったが、映画製作に精通しているだけあって、予算が大幅にオーバーすることが予想される本作に、危機感をつのらせていた。