役者の顔の判別すら困難なカオスなビジュアル
ソダーバーグの凄さは、この色分けをアーティスティックな可能性の追求にも利用してみせたこと。映像は極端なまでに抽象化され、“青”パートや“黄”パートはほとんどモノクロ映画に見える。ピンボケやカメラのブレもお構いなしで、観客がキャラクター全員を把握しづらい一因にもなっている。『トラフィック』はスタイルを重視して、敢えてわかりやすさを犠牲にしているという見方もできるだろう。
マイケル・ダグラスのような大スターも出ているのに「出演者の顔がよくわからない」なんてハリウッドでは相当な珍事だ。USAフィルムズというインディペンデント系のスタジオが製作と配給だったとはいえ、『トラフィック』ほどの規模の映画でソダーバーグの攻めまくった姿勢が許容されたのは驚異に値する。
ソダーバーグがなぜこんなワガママを貫き通せたのか? 最大の理由はソダーバーグが監督だけでなく撮影監督も兼任していたことによる。「でもスタッフクレジットでは撮影監督はピーター・アンドリュースという人になってないですか?」と言う人もいるかも知れないので説明しておくと、ピーター・アンドリュースとはソダーバーグの変名なのである。
撮影監督という役職は、監督の女房役としてビジュアル面を統括する責任者だ。日本では撮影と照明が分かれているケースが多いが、撮影監督は画面に映るもののすべてをコントロールする立場で、当然ながら照明にも責任を持つ。例えば撮影監督が「赤が映ると目障りだし作品に合わない」と主張すれば、その映画全体から赤いものがすべて排除されるくらいの力を持っている。
また、撮影監督が必ずしもカメラを操作するとは限らない。カメラを扱うのはオペレーターであり、撮影監督はカメラオペレーターの上に立つ存在なのだ。もちろん自らカメラを担いでオペレーターを兼任する撮影監督もいる。そしてソダーバーグ=ピーター・アンドリュースは、自らもカメラを担ぐタイプの撮影監督なのである。