混沌を見つめ、抱きしめる
かくも製作へと向かうこの紆余曲折は、フェリーニが衣を脱ぎ捨て、さらに自分自身の心の奥底へとカメラを向けるまでの通過儀礼のようにも思える。蓋を開けてみると、映画の本筋もまた「新作のアイディアが枯渇し、もう自分はダメなんじゃないかと苦悩する映画監督」という、まさにフェリーニが辿ってきた道程と同じなのである。
温泉の湯気が立ち上る保養地では、時折、夢や幻想が主人公の胸に押し寄せ、様々な形でグイドへ語りかけてくる。何を描くべきか、自分が何を表現したいのか、一向にその答えが出ぬまま、準備中の新作はSF映画ということになり、気づけばだだっ広い野原に撮影用のロケット発射台が建造されている。そうやっていつしか混乱はピークに達し、ギリギリまで追い詰められていく監督————。なるほど、表現者の心の内側、創造性の源泉を覗き見るという行為はこれほど興味深いものなのか。だがそれ以上に惹かれるのは、やがて主人公の苦悩が観る側一人一人の内なる感情とも繋がって、ナチュラルに共有されていくという点だ。
『8 1/2』(c)Photofest / Getty Images
本作ではこれといって優れた解決策や処方箋が示されるわけではない。しかし、一つ言えることがあるとすれば、我々一人一人もまた自らの人生を演出し、なんとかコントロールしようと葛藤するいわば映画監督なのであり、それが人間という生き物の本質だということ。
いつしか主人公は混沌を真正面から受け止める。そうやって混乱した自分から逃げずにそのまま抱きしめようとすることで、本作のラストには伝説的なまでに美しい祝祭的な瞬間がほとばしっていくのだ。