個人主義的な時代に、集団主義への理解を示す
では、次の「個人の物語」についてもご紹介しよう。先に述べたとおり、『フェアウェル』はルル・ワン監督の実体験に基づく作品だ。
劇中のビリーと同じ状況に直面したワン監督は、「作品にしなければ」という衝動にかられたという。そして脚本を書き上げ、ラジオ番組『This American Life』のエピソードの1つとして放送される。それがプロデューサーの耳に入り、映画化に至ったのだそうだ。
本作を「個人の物語」と評したのには2つの側面があり、1つは文字通り「監督個人から生まれた私的な物語」であること、もう1つは「個人の在り方を描く物語」であることだ。
これも世の流れが大きいように思うが、現在の映画は個人主義のものがだいぶ増えてきたように感じられる。SNSなどで「『半沢直樹』の主人公はなぜ転職しないのか?」という意見が話題を集めたが、同作に見られるような集団意識や帰属意識はむしろ希少な感覚というか、少し前の時代の主流というイメージだ。例えば『アベンジャーズ』シリーズにおけるアイアンマンとキャプテン・アメリカの対比などにも、個人主義と集団主義の対立が、現代と過去の移り変わりとして生かされている。
『フェアウェル』(c) 2019 BIG BEACH, LLC. ALL RIGHTS RESERVED.1668
少し飛躍するが、『ジョーカー』(19)は個人が社会を破壊する物語であるし、『パラサイト 半地下の家族』は社会に縛られた個人が、“寄生”することで生き永らえようとする物語。『スリー・ビルボード』(17)も、かなりわかりやすい作品だ。社会派の要素を、田舎町の3人の関係性だけで見せる。これらの作品にも、現代的な「個人主義」は息づいている。
『フェアウェル』の根底にも、現代のアメリカ的な「個人の意思を尊重する」という感覚と、アジアの伝統的な「社会や組織、家族があったうえで個人が存在する」という感覚のズレがあり、それがドラマ部分に奥行きとテーマ性を生じさせている。
さらに本作は、年代の違いだけで見せるのではなく、東洋と西洋というルーツの違いにも踏み込む。白眉といえるのは、「分類としては中国人だが、考え方はアメリカ人」という主人公ビリーの中に「個人と集団」の噛み合わない想いを存在させ、マイノリティの物語にも仕上げているところ。つまり、他者との意見の違いは描いているのだが、最終的にはビリーひとりの心の在り様に収れんさせていく。これまでの作品以上にミニマムな“個人”の物語に集約させているのだ。
そういった意味で、『フェアウェル』は実に現代らしい、究極的に閉じた作品ともいえる。ただ、個人主義を単に是とするのではなく、家族との絆の大切さも描いているところが美しい。
余談だが、Apple TVの『リトル・アメリカ』(20)や、Amazonの『モダン・ラブ』(19)など「名もなき市民の物語」が続々と映像化されている流れも、『フェアウェル』に通じるものがあるだろう。これもまた、我々観客の感覚が「個人」に寄っていっているところに関係するのかもしれない。