多様な価値観を否定せず、愛でつなぐ
いま書いたような「個人の物語であること」は、最後のポイント「東洋と西洋の“狭間”を描いていること」にも密接に結びついている。
ルル・ワン監督自身、中国語と英語を流ちょうに話すが、中国語を「書く」ことはできないそうで、脚本制作には両親の協力が大きかったとか。彼女を投影した『フェアウェル』の主人公ビリーも「6歳でアメリカに移住した」人物で、見た目から抱かれる“イメージ”と中身の違いに、空虚な想いを抱えている。就職先が見つからないという状況もあって、自分のルーツと現在と未来、すべてに根を張ることができないのだ。
故郷である中国に帰ってきても、ビリーのどこか宙ぶらりんな感覚は続く。ちょっと『ロスト・イン・トランスレーション』(03)的な、異邦人としての見せ方がなされていて、彼女は画面の中をさまよい続ける。ビリーにとっての“故郷”は、国ではなく祖母であるのだろう。その証拠に、祖母からかけられる「きっとうまくいく。人生は何を成し遂げたかじゃない。どう生きたか」といったような言葉で、心の安定を得ていく。
『フェアウェル』(c) 2019 BIG BEACH, LLC. ALL RIGHTS RESERVED.1668
このようなビリーの心の揺れや所在のなさは、映像面でも印象的に表現されており、東洋と西洋の両方の感覚が、画面には漂っている。たとえば序盤からモチーフとして“スズメ”が登場するが、これは米国を東洋的な感覚で描いており、中国に行くと西洋的な感覚で街を映し出し始める。構図然り、カメラの動き然り。登場人物が横並びで前に進むザ・ハリウッド的なカットも登場するが、基本は“視点”に集約されており、その代わりに球面のワイドレンズなどを使うことで、不思議な雰囲気を醸し出している。撮影監督のアンナ・フランケスカ・ソラーノはスペインの出身で、ヨーロッパの様式美も入っているように思える。
また、人間の描き方も興味深い。ビリーがアパートの開いたドアからちらりと見かける女性たちや、祖母の家で交流する家政婦たちは、アメリカに住む自分とはまるで違う生き方をしている。いとこの結婚相手である日本人の女性は、優しい人だがどこかが自分と違う。結婚式場で戦争時代の話で盛り上がる老人たちは、どんな人生を生きてきたのだろう? 東洋と西洋の狭間にいるビリーは、どこか引いた場所から彼らを見つめ、自分の存在意義を考えていく。
母との関係性も、細かくは描かれないものの、多くを考えさせる。ビリーは「移住はいいことと知りたかった。何も知らされなかったからつらかった」と想いをぶつけるが、母がふっと漏らす「中国では泣かないと『感情がない』と思われる」という言葉などから、秘めた苦しみを知る。故郷から離れることで、救われる人もいる。どこにいれば安息を得られるかは、人によって異なるのだと。
個人主義と集団主義の違いを、西洋と東洋の思考のズレで表現して見せたルル・ワン監督。そこに、自身の実体験という“実感”がこもっているからこそ、観る者の心に深く響くのだろう。さらには、個人個人の「幸せ」とは何なのか?という部分についても考えさせ、家族であってもそれぞれ考えていることは別だ、という目線を示唆もしている。
ただ、それらを丹念に紡ぎつつも、やっぱり愛で締めるところに、『フェアウェル』の最大の“救い”があるのではないか。本作は、それぞれの多様な考え方を否定しない。立場は違えど、皆が“愛”に対する理解を持ち得ているからだ。
愛は、ほぼ唯一、本作に登場するすべての人物に共通しているもの。そしてきっと、生まれた国も時代も、住む場所も使う言語も違う私たちを平等にしてくれる、相互理解への架け橋なのだ。
文: SYO
1987年生。東京学芸大学卒業後、映画雑誌編集プロダクション・映画情報サイト勤務を経て映画ライター/編集者に。インタビュー・レビュー・コラム・イベント出演・推薦コメント等、幅広く手がける。「CINEMORE」 「シネマカフェ」 「装苑」「FRIDAYデジタル」「CREA」「BRUTUS」等に寄稿。Twitter「syocinema」
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『フェアウェル』
10月2日(金) TOHOシネマズ 日比谷ほか全国公開
配給:ショウゲート
(c) 2019 BIG BEACH, LLC. ALL RIGHTS RESERVED.1668