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『トリコロール/白の愛』悲劇/喜劇の転換で描かれる〈愛の平等性〉

(c)Photofest / Getty Images

『トリコロール/白の愛』悲劇/喜劇の転換で描かれる〈愛の平等性〉

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悲劇/喜劇の転換──荒唐無稽な復讐劇



 もちろん本作における「運命」とは、三部作との“関係性”においてのみ見られるものではない。それは『白の愛』のストーリーそのものにも見られる。たとえばカロルは、例のトランクに入り込んで“密航”というかたちで故郷へと帰ることになるが、途中でトランクは強盗たちの手に。こんなとんでもない目に遭いながらも、なんとか帰郷し実業家として起死回生。やがて自身の死を偽装するという方法でドミニクへの復讐を果たす──この復讐劇でさえ、「まさか」の方法で遂行されるのだ。カロルのたどる道(=ストーリーライン)は荒唐無稽でありながら運命的。「滑稽噺」として落語にでもできそうなほどにドラマチック(劇的)である。


 一方の『青の愛』では、ヒロイン・ジュリーの“唐突に訪れる喪失と、そこからの再起”が運命的に描かれている。これはいわば、悲劇から喜劇への転換だ。「喜劇」というものは、必ずしも「笑い」を要するものではない。喜劇はあくまで「悲劇」の対を成すものであり、観客を楽しく愉快な気分にさせるものだけではないのだ。劇場で笑う者と泣く者とが同時にいても、なんら不思議ではない。


『トリコロール/白の愛』(c)Photofest / Getty Images 


 だが『白の愛』における「喜劇」は、観客の笑いを誘う“コメディ”としての側面が強く感じられる。とことんツイていないカロルがまさにそれを体現しているし、彼のたどる荒唐無稽な物語もそうだ。しかし同時に、一方的に妻に捨て去られる男の姿は悲劇的にも映るだろうし、愛しているはずの妻への復讐の果てにあるのは、やはり「悲劇」といえると思う。本作はつねに悲劇と喜劇が背中合わせで展開するのだ。愛憎渦巻くさまは、ウィリアム・シェイクスピアの諸作よろしく「悲喜劇」といってもいいかもしれない。「ロミオとジュリエット」も「ハムレット」も「マクベス」も、視る角度を変えれば喜劇だといえるだろうし、「夏の夜の夢」だって切り取り方しだいでは悲劇である。



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