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『トリコロール/白の愛』悲劇/喜劇の転換で描かれる〈愛の平等性〉

(c)Photofest / Getty Images

『トリコロール/白の愛』悲劇/喜劇の転換で描かれる〈愛の平等性〉

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“愛に平等は存在するのか?”という問い



 さて、では「悲喜劇」として展開する『白の愛』の「愛」とは何だろう?


 世の中にはありとあらゆる「愛」が存在する。性愛、友愛、家族愛、兄弟愛──。本作は一組の夫婦の愛のゆくえを描いたものであるのと同時に、カロルとその兄との兄弟愛を、互いに窮地を救い合うカロルとミコワイの友愛を描いたものでもある。


 世界中で愛を育む者たちの、その当事者間ごとにある「愛のかたち」はさまざまだ。献身、自己犠牲、片想い、両想い、あるいは依存や共依存──ここに並べた愛のかたちに見られるのは優位性。つまり当事者がふたりの場合、どちらか一方が上位にあり、他方が下位にあるということ。完全に対等な愛などないのではないだろうか。両想いや共依存の関係性にさえも、そのときどきで上下関係は生まれるはずだ。「愛」とはその関係の変化の繰り返しでかたちづくられているものだと思う。この変化こそが、悲劇から喜劇へ、喜劇から悲劇へ、そしてまた悲劇から喜劇への……転換といえるのではないだろうか。


 最後に本作の主題に立ち返ってみたい。それは、“愛に平等は存在するのか?”というもの。フランス・パリで自身の居場所を失ったカロルにとって、そこは異境の地であり、やがて夫の葬儀へと駆けつけ涙を流すドミニクにとってのポーランド・ワルシャワもまた同じだ。本作において、ふたりが互いに“越境者”であることは重要である。舞台がふたつ用意され、その境界をまたぐことで“愛の不平等性”はより明白になるのだ。この境界とは国境のことであり、生者と死者の境目のことだ。置かれる状況によって、彼らの関係性は逆転する。ストーリーが進む過程で、ふたりの追う/追われる関係性──つまり立場は逆転することになるのだ。


 〈愛の平等性〉──これを見出すのは難しいのだろう。この「悲喜劇」に、ときに笑い、ときに涙しながら感じるのはそんなことだ。自分自身の悲劇/喜劇の物語だけでなく、同様に他者の物語にも目を凝らし、耳をそばだてることが、少しでも〈平等な愛〉を築くのに近づけるのではないかと思う。



文: 折田侑駿

文筆家。1990年生まれ。主な守備範囲は、映画、演劇、俳優、文学、服飾、酒場など。映画の劇場パンフレットなどに多数寄稿のほか、映画トーク番組「活弁シネマ倶楽部」ではMCを務めている。敬愛する監督は増村保造、ダグラス・サーク。



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