2021.12.17
パンとバラの闘争
「ワンテイクでなければなりませんでした。テイクの前に、彼(ケン・ローチ)がキャロルに何かを言い、次に彼が私に何かを言うのですが、カメラが回ってから、彼が私たちに全く違う指示を出していることに気がつきました。だからこそ、彼は二台のカメラを必要としたのです。混乱と自発性が必要だったのです」(テレンス・スタンプ)*2
ケン・ローチのやり方に慣れていたキャロル・ホワイトとは対照的に、初参加となったテレンス・スタンプにとって『夜空に星のあるように』は、俳優として完全な自発性が求められるチャレンジの作品だったという。たとえば、ジョイがシチューをデイブにかけるシーンなどは、デイブ役のテレンス・スタンプには事前に知らされていなかった。予期せぬアクションに対するリアクションが「衝突」として画面に加えられていった。
ケン・ローチは同じ方法論で、ロンドン郊外に住む人々の顔を捉えていく。ジョイが見たであろう景色を一つずつ拾っていくことで、ジョイの生きた土地や時代をフィルムに記録していく。その意味で、街を歩く男性にコメントを加えていく女同士の会話が示唆的だ。ケン・ローチのアプローチは、ロンドン郊外に生きるシングルマザーのニュースの続きを描くというよりも、そのニュースの背景にあるもの、報道された記事から振り落とされたものを丹念に掬っていく作業のように思える。その方法は後年、たとえば『家庭生活』(71)のような美しい作品では更に洗練化され、演出された世界と演出されていない世界がほとんどシームレスに紡がれることとなる。
一方で、『夜空に星のあるように』では、洗練さへ向かう途中にあるかのようなフィクションとドキュメンタリーの「衝突」が魅力的だ。ジョイのナレーションとラジオから流れるポップミュージック、現実世界の環境音、あるいはノイズが、ミュージック・コンクレートのように断絶と融合を繰り返す遊園地のシーンは、本作の「衝突の実験」がもっとも結実したシーンだろう。それらはジョイのフィクション性に揺らぎを与える。
『夜空に星のあるように』©1967 STUDIOCANAL FILMS LTD.
また、ジョイと女友達とハーフヌードで挑むモデル撮影のシーンでは、二人にカメラを向ける脂ぎった男性たちの顔が、明らかに「醜悪なまなざし」として捉えられている。男性たちの視線や言葉によって性的に搾取されるジョイが、彼らの視線の「扱い」に慣れていることが、尚更彼女の不幸を際立たせ、暗澹たる気持ちにさせられる。と同時に、1967年の時点で、女性へ向けられた醜悪な男性の視線が、きっちり「告発のショット」として撮られていることに驚かされる。
本作に限らず、ケン・ローチの映画では、女性が一人で視線(カメラ)に曝されたときに、その影の輪郭に脆さと強さが強調される。ジョイは、男性からのあらゆる視線の世界に囚われ、そこから逃げ去っていきたい欲動を繰り返す中で、ささやかな幸せを求める。映画はジョイが、そしてキャロル・ホワイトが生きた景色を掬いとる。ジョイは語る。「理想どおりの人生なんて存在しない」。
『わたしは、ダニエル・ブレイク』(16)において、施設内のフードコートで、シングルマザーが空腹のあまり、陳列された缶詰を開けて食べ始めてしまうシーンがある。彼女は「みじめね」と泣き崩れてしまうが、ダニエル・ブレイクは彼女をソファに落ち着かせ、「そんなことない」と励まし続ける。そう、みじめなんかじゃない。私たちはパンも欲しいが、薔薇だって欲しいのだ。ケン・ローチは、デビュー作から最新作に至るまで、このときのダニエル・ブレイクの視線の高さで、いまも映画撮り続けている。
*1 IndieWire「Edgar Wright Breaks Down 25 Films from the 1960s That Inspired ‘Last Night in Soho’」
*2 AV CLUB「Terence Stamp on accents, first takes, and playing a transsexual」
映画批評。ユリイカ「ウェス・アンダーソン特集」、リアルサウンド、松本俊夫特集パンフレット等に論評を寄稿。
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『夜空に星のあるように』
2021年12月17日(金)より新宿武蔵野館ほか全国順次ロードショー
©1967 STUDIOCANAL FILMS LTD.