俳優もエキストラもただただ「瞬間」を生きる
一方、公民権運動の指導者を演じた主演ジェームズ・ネスビットは、エキストラが醸し出す巨大な空気に圧倒されながら行進を先導した。さすがの彼も大集団の端々で何が起こっているのかまでは把握できない。そのため、どこかで物音や歓声が起こるたびに不安げに振り返ったりする様子が伺える。主演の彼もまた、ある部分においては状況に身を任せながら運命の一日を体現したわけだ。
また、銃を構える兵士役の演者たちに関しても、グリーングラスは彼らのリアルな反応を引き出すべく、一計を案じた。彼らは大まかな撮影の流れは知っていても、その過程で何が起こるかは全く知らない。そこで、あらかじめ壁にスピーカーを設置し、そこから発せられる音に、すかさず反応させたのだ。
『ブラディ・サンデー』(c)Photofest / Getty Images
さらにDVDの音声解説に耳を済ませると、グリーングラスの演出への深いこだわりが聞こえてくる。彼が徹底したのは「役者にストーリーを語るという責任を負わせない」という点である。彼らの演技が説明的なものになってしまってはいけないし、はたまた「指定された場所に立って、あらかじめ決められたセリフを言う」だけの存在になってもいけない。出演者に求められるのは、状況に身を浸して、ただただ「瞬間」を生きること---。
なるほど、これこそ後の『ボーン・スプレマシー』や『ユナイテッド93』(06)にも繋がっていくポール・グリーングラス映画の真髄ではないかと私は思う。そこには常に生々しい状況が横たわり、カメラもまた、これから待ち受ける未来のことなど微塵も予測し得ないまま、ひたすら登場人物の動きを追いかけて、「いま」を更新していく。
こうした映画づくりの手法が徹底されているからこそ、観ている我々は傍観者のままではいられず、いつしか登場人物と同じ目線に立ちながら、リアリティに富んだ映像世界を浴びるように体感しているのだろう。
グリーングラスはこの方法論を初期の『ブラディ・サンデー』の頃に十分すぎるほど確立させていたのである。