静かに狂気へと蝕まれていく物語
はっきり言って『雨にぬれた舗道』は、とってもヘンな映画である。1時間以上経過しても、この物語の終着点がさっぱり分からず、何とも言いようのない不安感を抱いてしまう。
物語は、ブルジョワ独身女性フランセス(サンディ・デニス)が友人たちを招いて、小さなパーティを開くシーンから始まる。いつもの食事、ありきたりな会話。美しい彼女の顔は人形のように無表情で、心が浮き立つこともなく、ただ淡々と時間をやり過ごしているように見える。
フランセスは、窓の外から見える青年(マイケル・バーンズ)が気になっていた。土砂降りの公園のベンチに座り、完全に濡れ鼠状態。彼女はパーティを早めに切り上げると彼に声をかけ、風呂に入らせ、食事を与え、レコードを一緒に聴く。不思議なことに、彼は一言も声を発しない。彼女の問いかけにも一切反応しない。それでもフランシスは彼に世話を焼き、青年は気が向くと彼女の家に立ち寄るようになる。かくして、二人の奇妙で不思議な関係が築かれていく。
『雨にぬれた舗道』予告
おそらくフランセスは、心の奥底にしまっていた“母親”としての感情…すなわち母性が泉のように湧き上がり、青年に対して我が子のように愛情を注いだのだろう。デスマスクのようだった彼女の表情は生きる悦びに溢れ、生気を取り戻していく。そして、次第に我々は知ることになる…この映画は、“ある女性と青年の謎めいた連帯の物語”ではなく、強迫観念、統合失調症、人格障害、性的欲求不満をモチーフにした、“ある女性が静かに狂気へと蝕まれていく物語”であることを。
例えば、こんな場面がある。目隠しをした相手に向かってハーモニカを吹き、鬼ごっこをするのだ。カーテンに映った影が、もう一つの影を追いかける。
「私はね、遊んでいたの。目隠し鬼よ。知ってるでしょう?懐かしい物を見つけたの。分かる?私の制服のネクタイよ。この赤色は炎を象徴しているの。心の炎よ」
青年に捕まったフランセスの表情は、もはや母親としてのそれではない。青年に愛撫され、肉体が交わることを期待している顔だ。
『雨にぬれた舗道』© MCMLXIX Commonwealth United
もしくは、彼女が産婦人科で手術を受ける場面。待合室でご婦人たちは「ピルを飲む」だの「ペッサリーを付ける」だの、あからさまにセックスの話をしている。あまりの下世話さに耐えきれなくなったのか、洗面所に向かうフランセス。だがご婦人たちは相も変わらず避妊の話をし続け、彼女も、そして我々観客も、その会話を聞き続ける。フランセスはセックスを忌み嫌いつつ、セックスを激しく求めているのだ。そして避妊具の装着手術に臨み、その“時”を迎える用意をする。
やがて押しとどめていた感情が爆発するや、彼女は超えてはいけない一線を超えてしまう。静かに狂気へと蝕まれていったフランセスは、遂にその牙をむくのである。