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圧倒的なケイト・ブランシェット
はじめにケイト・ブランシェットありき。トッド・フィールドはカリスマ指揮者リディア・ター役をケイト・ブランシェットへのあてがきとしている。『TAR/ター』(22)はケイト・ブランシェットという俳優に期待されるカリスマ的なイメージの上を歩きながら、ゆっくりとそのイメージを解体させていく。リディアはオーディエンスが自分にどのような視線を向けているかよく心得ている。自身をスタイリッシュにブランディングしていく能力に長けている。彼女は常に“リディア・ター”としての所作や言葉のチョイスに細心の注意を払っている。
出版される書籍の公開インタビューへ向かうリディアが、舞台袖で儀式のような動きをする。呼吸を整えるためのおまじない。あるいは自分の内側にはない別の魂を憑依させるための儀式。カリスマ指揮者としてのオーラを纏い、スマートに受け答えするリディア。公開インタビューのシーンは、成功したハリウッドスターによるアクターズ・スタジオのインタビュー映像のようでもある。舞台上のリディアは自身の作り上げた“リディア・ター”というパブリックイメージを見事に演じている。
『TAR/ター』© 2022 FOCUS FEATURES LLC.
オーディエンスの憧憬と嫌悪の両方を一身に浴びるリディア。おそらくケイト・ブランシェットは相当なリスクを賭けて本作に挑んでいる。リディア役への身の投げ出し方が凄まじい。あらゆる空間を支配するリディア。この役は現在のケイト・ブランシェットにしか演じることができない。本作の撮影に挑むため、オーケストラの指揮のレッスンに留まらず、ピアノやドイツ語を習得したケイト・ブランシェット。トッド・フィールドのインタビューによると、自分の台詞だけでなく他の俳優の台詞も丸暗記した上で、脚本の参照文献まで研究する意識の高さだったという。
観客の期待を強い決意で超えていく圧倒的なケイト・ブランシェットの演技が本作には刻まれている。指揮棒を振るリディアを仰角で捉えた強烈なイメージは、すべての音の振動を体感する地点、暴風のごとくすべてをさらっていく物語の中心を示している。そしてこのショットは、演技に対峙する稀代の俳優の、情熱の震源地を表わしているようにも思える。トッド・フィールドは本作について語るケイト・ブランシェットを前にしたとき、まるで偉大な映画作家と話しているような気持ちになったという。