リディア・ターという自己演出家
リディアが音楽学校の生徒たちに講義する、10分以上に渡る長回しが圧巻だ。まるでこのシーンのリズムを作る全権をケイト・ブランシェットが握っているかのように、リディアは空間を支配していく。リディアによる独特な手の使い方は自己演出をする上で大きな要素になっている。彼女が次々と生徒に向けて話を振っていくその手振りが、映画監督による合図のように思えてくる。リディアはこの舞台全体を指揮=演出をしているのだ。マスタークラスにおけるリディアの超越的な振る舞いは、指揮者が“時間”を支配することについて語る公開インタビューの内容と重なっている。
知性に恵まれたリディアの身振りと発話は、オーディエンスの予測を常に先行している。リディアの態度はやや道化的とも受け取れるが、すべてが本心から出てきた言葉ではあるのだろう。リディアは自身のカリスマ性を演出するゲームを無邪気に楽しんでいるように映る。突如グレン・グールドの物真似をしながらピアノを弾き始めるリディア。ホールという演劇的な空間。彼女だけの舞台。高揚する魂。そしてリディアの意見に反論する生徒がいる。ほとんど自己愛の発露のような彼女の身振りが、優雅な加速ぶりで生徒への攻撃性を帯びていく。リディアはついに権力の斧を振るうことで一人の生徒を傷つけてしまう。
『TAR/ター』© 2022 FOCUS FEATURES LLC.
舞台上でオーディエンスからの憧憬と嫌悪を一身に受けるという意味において、リディアは『アネット』(21)のヘンリー(アダム・ドライバー)と双璧のキャラクターといえる。ケイト・ブランシェットもアダム・ドライバーも、映画のフレームに身を投げ出すような一世一代の演技を披露している。『TAR/ター』と『アネット』は共に主人公がセルフ・プロデュースのコントロールを失っていく過程が描かれた作品でもある。
リディアの自己演出は、西洋のエリート社会で自分の地位や尊厳を守るために身につけた技術ともいえる。大きな才能に恵まれ努力家で知性に溢れるリディアは、自己演出によって武装している。彼女が男性のマエストロをモデルとしてきたことも一因なのかもしれない。華やかな舞台を一旦降りてしまえば、パートナー(ニーナ・ホス)や小さな娘との日常が待っている。トッド・フィールドはリディアに対して白と黒でジャッジするようなことはしない。キャンセル・カルチャーに対する同情や批判よりもさらに深い問題に踏み込んでいく。リディアが生徒に振り下ろしたような権力の斧を作りだす力学が、どうやってこの世界に生まれてくるのか?本作はそこに鋭い目を向けている。