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『国葬の日』その日の日常をフラットに描いたことで現れた、「怖さ」の正体

(C)「国葬の日」製作委員会

『国葬の日』その日の日常をフラットに描いたことで現れた、「怖さ」の正体

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『国葬の日』あらすじ

2022年9月27日――安倍晋三元首相の国葬が東京・日本武道館で執り行われた。その賛否を問う世論調査の結果は、各社ともおおよそ賛成4割、反対6割。なぜ人々の意見はかくも激しく対立したのか?あの国葬は、果たして何だったのか?国論を二分した国葬の当日、『なぜ君は総理大臣になれないのか』『香川1区』の大島新監督が、全国10都市――東京、山口、京都、福島、沖縄、北海道、奈良、広島、静岡、長崎でキャメラをまわし、人々の姿を記録した。


Index


日本人のグラデ―ションを描く



 『国葬の日』は怖い映画だ。その「怖さ」を例えるなら、何の道標もない荒野にいきなり放り出され、どうしていいのか分からず立ち尽くす感覚だろうか。一見シンプルなこのドキュメンタリーがなぜそのような「怖さ」をもたらすのか。そこには監督・大島新の企みと、それが思わぬ形で着地してしまったことが関係している。


 『なぜ君は総理大臣になれないのか』(20)、『香川1区』(21)という傑作政治ドキュメンタリーをものにした大島新。2022年夏、彼は安倍晋三元首相の国葬を前に焦燥感にかられていたという。これまで共に映画を製作してきた前田亜紀プロデューサーからは、「国葬をテーマに何か…」と提案されていたものの、具体的な作品のイメージは像を結ばなかった。しかし国葬3日前、突如あるアイデアを思い立つ。「国葬の日に全国10か所でカメラを回し、その素材だけで映画を作る」。



『国葬の日』(C)「国葬の日」製作委員会


 その意図は、映画の冒頭、こんなテロップで明かされる。「国葬についての世論調査(9月) 読売新聞 評価する38% 評価しない56%  朝日新聞 賛成38% 反対56%」保守系と左派系それぞれの新聞の調査で、国民の意識がぴたりと一致する興味深い結果だ。この数字を冒頭に掲げた狙いを大島はこう書いている。


 「自らの意思で強固に反対している人も、強固に賛成している人も、どちらもそう多くはないだろうと思った。(中略)日本人は個が弱く、いつも周囲の目を窺っている。自分で決めない。誰かに決めてもらいたいのだ。だから日本の民主主義は、機能しない。そんな日本人の在り方を映画として浮かび上がらせることはできないか…」そしてこう宣言する、「これは、日本人のグラデーションを描く映画だ」(DIRECTOR’S NOTEより)。


 その結果選択されたのが、「全国10か所同時に、国葬に反対か賛成か、国民の意見を取材する」というものだった。こうして大島が信頼する手練れのスタッフが全国に飛び、市井の声をすくい上げた。


 しかし映画を観ていくと徐々にある疑念が頭をもたげる。確かに大島が言うように「自分で決めない、誰かに決めてもらいたい」という日本人像は浮かび上がってくる。しかしそこに「グラデーション」らしきものは、実はないのではないか、と。


 沖縄・辺野古で基地建設反対運動をする人々や、安倍晋三を「偉大な首相だった」と評価する若者のように、明確な意見を持つ人は例外的だ。多くは、「どちらかと言えば反対」、「なんとなく賛成」といったニュアンス。しかもそれらのコメントに滲むのは「国葬自体にあまり興味がない」という他人事感だった。そんな人々のコメントは、取材者へ逆にこう聞き返しているかのようだ、「そもそも国葬に反対・賛成を表明することに何か意味があるのか?」と。


 臆面のない無関心と他人事、これこそ本作の核心である。しかしそのテーマ性だけでは、筆者が感じたような「怖さ」にまで到達することはない。そこにはドキュメンタリスト大島の表現手法が大きく関係しているのだ。





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