オルター・エゴ=ゴースト
「銀座の内部にいる人達の経歴を含め、本名その他、探りあわないのが上策のようだった。三年銀座にいて、それ以上の話を僕も聞いたことがなかったし、僕も話さなかった。大人の世界といえば大人の世界だ」(「白鍵と黒鍵の間に」原作)
バブル期銀座の夜の世界のマナー。法被とお面を被りキャバレーでピアノを演奏する博。スーツとサングラスで夜の銀座を闊歩する南。まだ夜の世界のマナーを知らない博と、すっかり夜の世界に染まりきったギャングのような南。『白鍵と黒鍵の間に』では、三年前の南博と三年後の南博が“オルター・エゴ”として銀座の夜を同時に彷徨っている。南博=池松壮亮は、“あいつ”からリクエストされた「ゴッドファーザー 愛のテーマ」の演奏の話を軸に、南と博に分裂する。博の目の前に現れ、一瞬で消えていく南。夜の路上をカリスマのように歩く南(=博の未来)。この“分裂”シーンのキレが素晴らしい。
オルター・エゴというマジックリアリズム的な表現は、これまでの冨永作品にも見られた手法だ。たとえば『パビリオン山椒魚』のレントゲン技師、飛島芳一(オダギリジョー)は映画の後半で山賊になっている(『ゴッドファーザー』のシチリア島のシーンのパロディ。偶然にも本作との繋がりがある)。『シャーリー・テンプル・ジャポン・パートⅠ&Ⅱ』という作品では、同一脚本をまったく別の撮り方でリメイクするというユニークな二部構成を試みている。また菊地成孔の「京マチ子の夜」のPVでは、猥雑なバックステージで時制が行ったり戻ったりを繰り返す魔術的な物語を紡いでいる。ウォン・カーウァイ的な官能性と昭和のキャバレー的な猥雑さの魔術的なマリアージュといえる「京マチ子の夜」のPVは、『白鍵と黒鍵の間に』と同じくバックステージものだ。無表情で性交する女。もう一人の女は死体となり、生き返り、去っていく。誰もいなくなった猥雑な空間には、人間の濃厚な残り香だけが漂い続ける。
『白鍵と黒鍵の間に』Ⓒ2023 南博/小学館/「白鍵と黒鍵の間に」製作委員会
これらのことから『白鍵と黒鍵の間に』の池松壮亮=南博は、自分のゴーストと歩いているということができる。それどころか、“あいつ”も千香子もバンマスもシンガーもホステスたちも銀座のクラブやキャバレーに集う誰もが、自分のゴーストと共に歩いているように見える(黒い天使のようなホステスY子=中山来未!)。クラブに集まるお客たちは、まともに演奏を聞きはしない。ジャズミュージシャンを目指す南は、銀座の夜のマナーにどっぷりと浸かりつつ、こんなはずじゃなかった人生に苦しんでいる。誰もがなりたかった自分と歩いている。なりたかった自分とのギャップに苦しんでいる。夜の街の“道化”に徹するキャラクターたちが、ふとした瞬間の身振りや言動の中に滲み出すもの。