料理教室という舞台の不気味さ
黒沢清監督の映画を見つづけてきた人であれば、家庭の食卓という場所が、黒沢映画にとっていかに重要な装置であるかがよくわかるはず。『復讐 THE REVENGE 消えない傷痕』(97)や『蜘蛛の瞳』(98)から『クリーピー 偽りの隣人』(16)、『散歩する侵略者』(17)にいたるまで、夫婦ふたり、もしくは家族が揃い、食卓で向かい合う光景がたびたび描かれてきた(ちなみに、夫婦の場合はたいてい妻が料理担当だが、皿を運んだりビールを二人分のグラスに注ぐのは夫の担当である)。だが穏やかそうに見えるその光景は、多くの場合、やがておぞましい悲劇へと導かれていく。
『Chime』にもやはり家族で囲む食卓風景が登場する。『トウキョウソナタ』(08)のように子供と夫婦で食卓を囲む様子は、それが平穏に見えれば見えるほど、これから訪れる恐ろしい何かを予感させる。しかしこの映画でなにより重要なのは、料理教室という場所が登場すること。食事風景ほど頻繁に登場する機会はないが、黒沢映画における料理のありかたは、改めて考えてみたいテーマだ。『CURE』(97)での調理されなかった生肉の行方から、『岸辺の旅』(15)でのハッとするような官能性を持つ白玉団子作りまで、料理風景からは人々の関係のありかたが確かに見えてくるはずだ。
『Chime』©Roadstead
『Chime』で料理教室という舞台を選んだ理由について、監督自身はたいしたきっかけはないとしながらも、クリント・イーストウッドの『ヒア アフター』(10)に登場する料理教室のシーンを見たときに、ステンレスの調理台に包丁が並んでいる場所は撮りようによってかなり怖いものになるのではと感じた、と語っていた。実際、松岡の料理教室では、無機質なステンレスの調理台にずらりと包丁が並ぶなか、人々は鶏肉を骨から解体し、発酵したパン生地にナイフを入れる。料理教室としてはごく自然なものにもかかわらず、その作業風景は実に不穏な気配に満ちている。
そもそも料理教室とは、ゾッとするような恐ろしさを持つ場所なのかもしれない。そこには大量の包丁やハサミ、棍棒や肉叩き、鉄製のフライパンなどといった、いつでも凶器になりえる道具が揃っていて、動物の死体を骨から解体することも、火を使って肉を焼くことも、また死体を冷凍することも簡単にできてしまう。むしろそういう恐ろしい場所だからこそ、絶対に危険なことは起こらない、という約束をみなが共有することで、どうにかこの場を成り立たせているともいえる。
だから私たちは、誰かが包丁やナイフを手に取るたび、ステンレスの台が光を怪しく反射するたびに、何かが起こりそうな気配に身をすくめずにいられない。安全なはずの道具があるとき急に凶器に変わり、誰かがそれを振り上げるのではないか。絶対に安全であったはずのこの場所が、いつか本来の恐ろしさを取り戻してしまうのではないか。恐怖がじわじわと進行し、やがてその決定的な瞬間が訪れる。