『春画先生』あらすじ
”春画先生”と呼ばれる変わり者で有名な研究者・芳賀一郎は、妻に先立たれ世捨て人のように、一人研究に没頭していた。退屈な日々を過ごしていた春野弓子は、芳賀から春画鑑賞を学び、その奥深い魅力に心を奪われ芳賀に恋心を抱いていく。やがて芳賀が執筆する「春画大全」を早く完成させようと躍起になる編集者・辻村や、芳賀の亡き妻の姉・一葉の登場で大きな波乱が巻き起こる。それは弓子の“覚醒”のはじまりだった。
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北香那という事件
揺れる、そして乱れる。紅潮する頬。乱調の中に生まれる艶色。春画先生=芳賀一郎(内野聖陽)に翻弄された人は女性だけでなく、男性もどんどん艶っぽくなっていく。心のリミッターが外される。春画先生が春画に向ける真っすぐな情熱に感化されてしまう。春野弓子(北香那)は、春画先生に翻弄されることで本来の自分を取り戻す。あるいは本来の自分以上の何かに変貌していく。それは演技が演技を超えていく瞬間に似ている。トランス状態。
スクリーンの中の北香那は、真っすぐに弓子という役を生きている。これほどのパッションをスパークさせるヒロインにめぐり会えることはそうそうない。ほとんど事件だ。しかも弓子はただひたすらに真っすぐに生きている人物というわけではない。彼女には抑えきれない欲望に対する恥じらいがある。あらゆるシチュエーションで弓子の呼吸が生々しく録音されている。この映画を見る者は、弓子の見せる一つ一つのためらいの呼吸、勇気を振り絞った呼吸の奥に、ほとばしるほどの情熱が募っていくのを感じることができるはずだ。それはクライマックスへ向けた最高の“助走”となっている。弓子がよく走るヒロインなのは偶然ではない(北香那の全力疾走、そのモーションの素晴らしさよ!)。
『春画先生』Ⓒ2023「春画先生」製作委員会
『春画先生』(23)がこのような奇想天外でワイルドな映画だと予想のつく者は一人もいないだろう。春画先生に翻弄される弓子の物語は、やがて小泉八雲の「怪談」の持つ官能性すら画面に漂わせ、終盤に向けてスパークしていく。そしてこの映画に出てくる誰もが狂っていく。しかし塩田明彦監督は『月光の囁き』(99)や前作『麻希のいる世界』(22)をはじめ、何かに狂っている状態こそ人間のもっとも正常な状態なのだと多くの作品で主張してきた。地面が揺れる、心が揺れる、そしてよく分からないパッションに体ごと呑み込まれるように乱れていく。北香那は弓子のことを十代の頃の自分のように感じていたという。弓子の呼吸の乱れの中に“美=映画”が生まれている。
北香那は本作で肌を見せる演技をすることを本望だと感じつつ、少なからず恐怖を感じていたという。しかし芳賀の家政婦を演じる白川和子のアドバイスによって目の前の景色が開けたと、感謝の言葉を述べていた。白川和子は日活ロマンポルノの伝説的なスターとして知られている。肌を見せるのはあなたではなく、弓子。本作の北香那は、演じるよりも先に弓子という役を生きている。