1. CINEMORE(シネモア)
  2. 映画
  3. アイム・ノット・ゼア
  4. 『アイム・ノット・ゼア』“俺はそこにはいない”ディランであってもディランではない
『アイム・ノット・ゼア』“俺はそこにはいない”ディランであってもディランではない

(c)Photofest / Getty Images

『アイム・ノット・ゼア』“俺はそこにはいない”ディランであってもディランではない

PAGES


“ファシストを殺すマシン”を持つ少年



 “無法者”のビリーはアメリカ西部開拓史の時代を生きるアウトロー。ハイウェイ建設のために立ち退きを余儀なくされ、住民たちが次々とみずから命を断っている田舎町で、彼は抗議の声を上げる。彼の名前ビリーとは、西部劇の英雄のひとりであるビリー・ザ・キッドから。ディランが映画初出演を果たすと同時に音楽も手がけた巨匠サム・ペキンパーの『ビリー・ザ・キッド/21才の生涯』(73)とリンクする。


 “ニセ者”ことウディ・ガスリーは11歳の黒人少年で、“ファシストを殺すマシン”と書かれたギターケースを手に貨物列車で放浪している。その名前は、ディランも憧れていた伝説のフォークシンガー、ウディ・ガスリーから取られており、彼のギターケースには同じ文句が書かれていた。もとい、本作のウディはギターと歌の腕に優れており、それを生かして行く先々で大ぼらを吹いては窮地を乗り切り、当てのない旅を続けている。



『アイム・ノット・ゼア』(c)Photofest / Getty Images


 そして“ロックンロールの殉教者”は、60年代半ばのディランそのものの容姿で現われるロックンロールスターのジュード。渡英してツアーを敢行した彼はメディアに追いかけられ、ビートルズのメンバーと戯れ、パーティでは過労で倒れ、ステージではフォークを捨ててエレクトリックサウンドに転向した裏切り者として激しい罵声を浴びる。その後、オートバイ事故に遭うのだが、これもディラン本人の体験を反映。


 彼ら6人の物語が交錯し、つながりを持ちながら展開。6人が生きている時代も異なるので、19世紀から20世紀へ、またはその逆と奔放に飛び交う。 “ディランの人生と作品を通過して、別々の人格を浮かび上がらせ、それぞれを物語に仕立てること。それはディランの人生の真実を表現する、たったひとつの手段だった”とヘインズは語る。




PAGES

この記事をシェア

メールマガジン登録
  1. CINEMORE(シネモア)
  2. 映画
  3. アイム・ノット・ゼア
  4. 『アイム・ノット・ゼア』“俺はそこにはいない”ディランであってもディランではない