2024.07.10
観る者の思考を刺激する挑戦的なつくり
この物語をとおして、まずディランが人々にどう受け止められてきたのかが見えてくる。反体制の闘志、音楽界のカリスマ、天才的な詩人、皮肉屋、裏切り者……1960年代はカウンターカルチャーがアメリカを動かした激動の時期であり、ディランのとらえ方も時期や人によって異なる。泥沼化したベトナム戦争のニュース映像がしばしば挿入されるが、それは時代のカオスをよく表わしている。ディランだけではない。理想を抱く者なら誰でも、闘うのが難しい時代だったのだ。
本作にはセリフが多いが、ディランの思想もそこには宿る。「言葉を書かなくても詩人だ。ガソリンスタンドの店員も、靴みがきも」「歌で世の中が変わるなんて思っていない」「音楽をどんな名前で呼ぶかなんてどうでもいい」などなど、思索的な台詞に富んでいる。面白いのは、見進めるほどそれらが観客の心の中に浸透し、思考を促していくことだ。社会とは何か? その中で人は何ができるのか? 何ができなくて、人は苦しむのか?
『アイム・ノット・ゼア』(c)Photofest / Getty Images
考えるヒントは劇中にフィーチャーされたディランの多くの楽曲にも隠されている。本作ではディラン自身のナンバーはもちろん、別アーティストによる彼の曲のカバーもある。膨大な数のディランの楽曲の中で、ヘインズ監督は物語性のあるものを選んだという。「やせっぽちのバラッド」や「運命のひとひねり」など、映画の内容に直接関わってくるナンバーは痛烈だ。
考え続ける生きものーー人間の多面性を問う
このように本作には、とにかく情報量が多い。6人のディランの物語というだけでもそれはうかがえるが、そこには反戦、ジェンダー、権力による搾取、格差など、さまざまな要素が含まれている。映像的にもカットの切り替わりが早く、そこから伝わるものは多い。誤解を恐れずにいえば、映画そのものが良い意味でカオスだ。
興味深いのは、こんなカオスの中で、本作は“アイム・ノット・ゼア”――“俺はそこにはいない”と宣言すること。6人はディランであってもディランではない。人々はディランをとらえ、レッテルを貼るが、正解はない。言うまでもなく、“天才”でも“現代を代表するミュージシャン”でもない。
『アイム・ノット・ゼア』(c)Photofest / Getty Images
人間は決して一面的ではない。これは最善なのか? いや、間違っているかも。いや、他の道があるかもしれない。……というように、深く思考する人は必ず分裂する。他人の目からは、その人間は、下した結論のみで印象づけられる。そして、それ以外の多面性が“そこにはいない”のだ。
『アイム・ノット・ゼア』はディランを題材にした映画であると同時に、思考することを止めない人間という生き物の習性をとらえた作品でもある。私にも、あなたにも、複数の私やあなたがいる。ヘインズの挑戦は、そう考えさせることにあったのではないだろうか。
文:相馬学
情報誌編集を経てフリーライターに。『SCREEN』『DVD&動画配信でーた』『シネマスクエア』等の雑誌や、劇場用パンフレット、映画サイト「シネマトゥデイ」などで記事やレビューを執筆。スターチャンネル「GO!シアター」に出演中。趣味でクラブイベントを主宰。
(c)Photofest / Getty Images