記憶という私たちの心を重く閉ざし縛りつけるもの
これらのミシェル・フランコ的な物語世界を、今作では原題にもある”Memory”という要素が効果的に貫く。片や、忘れたい過去を抱えて生きる女性がいる。彼女はその記憶が蘇るたび過去に引き戻され、目と耳をふさぎ、前に進むことができなくなってしまう。
もともと記憶というものは、客観的事実とは本質的に違う。人の数だけ記憶があり、それらは本人の意識や見方によって、いとも簡単にねじ曲げられてしまう。この構造もまた主人公を苦しめる一つの重い鎖となっていることが徐々に明らかになってくる。
こうして記憶に絡みとられ苦しむ人がいる一方で、片やピーター・サースガード演じるソールにとっての記憶とは、逆に、掴みたいのに掌からこぼれ落ちる砂のようなもの。彼は誰かの介助なしには平穏な生活を送ることができない。
かくも切羽詰まった状況にある二人。フランコ監督はそんな彼らを運命的に出会ったパズルのピースのように強く結びつける。シルヴィアがソールをケアし、彼の記憶を補ってくれるのはもちろんだが、当の彼女自身にとっても、記憶から解き放たれたソールと過ごす時間がどれほどの救いになったことか知れない。
『あの歌を憶えている』© DONDE QUEMA EL SOL S.A.P.I. DE C.V. 2023
二人が共に居る時、そこでは記憶にいっさい縛られることなく、過去でもなく、未来でもなく、いまこの瞬間を生きることができる。互いを埋め合い、支え合うことができる。その切実なれど、穏やかで尊い関係性。そこに響き渡るプロコル・ハルムの1967年の名曲「青い影」が、作品をささやかな優しさと温もりで包み込む。こうして徐々に織り成されていく二人の生き様が実に見事だ。
優れたメキシコ出身の映画監督の中には結果としてハリウッド進出する者も多い。はたしてこの俊英もイニャリトゥやキュアロンのような先達と同様の道を辿るのだろうか。聞くところによると、フランコは過去に米大手からのオファーを蹴ったこともあるとか。そうやってあくまで自らの芸術性や責任が及ぶ範囲での映画づくりにこだわり続けるのも彼らしいところだ。
だが少なくとも、本作がこれまで以上の幅広い観客の心に届く秀作として実を結んでいることはまず間違いない。たどり着いたその境地から、いまフランコはどのような今後の展望を思い描いているだろうか。
参照:https://www.indiewire.com/news/general-news/michel-franco-would-never-work-in-hollywood-1234904309/
1977年、長崎出身。3歳の頃、父親と『スーパーマンII』を観たのをきっかけに映画の魅力に取り憑かれる。明治大学を卒業後、映画放送専門チャンネル勤務を経て、映画ライターへ転身。現在、映画.com、EYESCREAM、リアルサウンド映画部などで執筆する他、マスコミ用プレスや劇場用プログラムへの寄稿も行っている。
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『あの歌を憶えている』
新宿ピカデリー、Bunkamuraル・シネマ 渋谷宮下ほか全国公開中
配給:セテラ・インターナショナル
© DONDE QUEMA EL SOL S.A.P.I. DE C.V. 2023