フラジャイル(壊れやすい)な私たち
『アドレセンス』で驚くべきは、その撮影スタイルだ。1話1時間の物語は、全てワンシーン・ワンカット。撮影監督のマシュー・ルイスは「テイクの繋ぎ合わせはない。私が望もうが望むまいが、本当に全体がワンカットなんだ」(*4)とインタビューで答えているから、ポストプロダクションで調整している訳でもない。我々視聴者が目にしているそのままの映像を、カメラがリアルタイムで追っていたのだ。
マシュー・ルイスの仕事は多岐に及んだ。俳優たちが快適に芝居ができるようにプランを練り、技術的な問題を検討し、ゲネプロを繰り返して、全体の見取り図を策定。1日に1エピソードを2テイクずつ撮影し、各エピソードそれぞれ約10テイク前後の撮影が敢行された。気の遠くなるような細かな作業と、撮影の繰り返しによって、ドラマが創り上げられていく。
特に高校を舞台にした第2話は、階段を登ったり下ったりして絶え間なく移動が繰り返され、幾度となく登場人物の視点がスイッチされ、数多くの教師・生徒が入り乱れる、超高難度撮影。しかもラストは、カメラがゆっくり上昇して上空を旋回し、やがて地面に戻るとそこには被害者に花を手向けるエディがいるという、神業ショットだ。
「学校のエピソードの最後は、ドローンに接続して飛び立たせ、駐車場に再び着陸する。上からの土壇場のリクエストだったんだ。当初は離陸して飛行し、上空に留まる予定だったが、シーンの最後にスティーヴン・グラハムを見つけるのがいいだろうということで、そのための調整に2、3日かかったが、うまくいったよ」(*5)
Netflixシリーズ「アドレセンス」
もうひとつこの第2話で印象的なのは、カメラが上空を舞うとき、スティングの名曲「フラジャイル」が子供たちの輪唱ver.で流れることだ。2枚目のアルバム「...Nothing Like the Sun」(87)に収録されたこの楽曲は、1987年にニカラグアで殺害された土木技師に捧げられている。そして2001年のアメリカ同時多発テロ事件以降は、非暴力のアンセムとして歌い継がれてきた。
That nothing comes from violence and nothing ever could
For all those born beneath an angry star
Lest we forget how fragile we are
暴力からは何も生まれない
怒れる星の下に生まれた、すべての者のために
私たちがいかにもろいかを、忘れないように
人間はとてももろく、壊れやすい。人間は容易に傷つき、容易に人を傷つける。このドラマで最も特徴的なことは、哀しい事件によって、それに関わる多くの人々もまた大きな傷を抱えたことを、4つのエピソードを通して語っていることだ。思春期の子供であろうと、成熟した大人であろうと、我々は皆フラジャイル(壊れやすい)な存在なのである。
前述したように、本作は特定の誰かを糾弾するドラマではない。だが、決して画面には登場しない人物…少年にマノスフィアを植え付け、女性に対する憎悪を膨らませ、残虐な行為に走らせた…ミソジニストのインフルエンサーに対しては、非難の眼差しを向けている。少年は誰の声を聞き、誰の言葉を信じたのか。親は、少年たちをどのように守るべきなのか。『アドレセンス』が警鐘を鳴らすのは、ティーンエイジャーの加害者ではなく、SNS社会そのものである。
(*2)https://www.bbc.com/news/articles/cwydwzv4qpgo
(*4)(*5)https://variety.com/2025/artisans/news/adolescence-one-take-episodes-netflix-1236339292/
文:竹島ルイ
映画・音楽・TVを主戦場とする、ポップカルチャー系ライター。WEBマガジン「POP MASTER」(http://popmaster.jp/)主宰。
Netflixシリーズ「アドレセンス」独占配信中