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『2001年宇宙の旅』キューブリックが徹底研究した作品と、集められたスペシャリストたち
グラフィックフィルムズと『To the Moon and Beyond』
次にキューブリックはクラークと共に、1964年と1965年に開催されたニューヨーク世界博覧会の会場に通い詰めた。そして企業共同館である「トランスポーテーション&トラベル・パビリオン」に注目する。ここにKLMオランダ航空とシネラマ社が、『To the Moon and Beyond』(月とその彼方へ)という短編を出展していた。この作品は、プラネタリウムのようなドームスクリーンに、通常の70mm映画の倍の面積を持つ70mm 10パーフォレーション・フィルムで上映する、“シネラマ360”方式を採用した全天周映像である。そしてそのストーリーも、キューブリックとクラークが考えていたプランに非常に近いものだった。
この作品を作っていたのが、航空会社やNASAの広報映像を数多く手掛けていたグラフィックフィルムズ社である。同社は、元ディズニーのアニメーターだったレスター・ノヴロス(*4)が創設したプロダクションで、リアルイラストレーションとアニメーションスタンドを組み合わせた、独自のテクニックで有名だった。
キューブリックは、ノヴロスと『To the Moon and Beyond』(月とその彼方へ)の監督を務めたコン・ペダーソンをオフィスに招き、映画への参加を要請した。そして彼らにシナリオと大量のイメージボードを見せ、ラストシーンに登場させる予定だった異星人のイメージを説明するため、美術館の「ジャコメッティ展」へ連れて行ったりもした。
こうして両者の間でコンサルティング契約が結ばれ、グラフィックフィルムズのスタッフは、ディスカバリー号や月面基地、宇宙ステーション、スペースポッドなどのデザインとメカニズム、科学考証、視覚効果のアイデアを出した。彼らはこのまま本番制作にも関われると思っていたが、キューブリックは突然ニューヨークのオフィスを畳んで、英国ボアハムウッドのMGMスタジオ内に拠点を移してしまう。これは、当時の英政府が行っていた税制優遇を利用するためと、監督主導で活動できる環境を求めたことが関係している。その後もキューブリックは、グラフィックフィルムズと国際郵便で意見交換を続けていたが、やりとりにかかる時間にひどくいらつき始め、一方的に契約を解除 してしまった。
『2001年宇宙の旅』(c)1968 Turner Entertainment Co. All rights reserved.
この揉め事を見ていたのが、グラフィックフィルムズで一番若手(当時23歳)だったダグラス・トランブルである。彼は、背景画担当のイラストレーターとして雇われていたが、『2001年宇宙の旅』のプロジェクト終了と同時に解雇されていた。彼は個人的にキューブリックへ電話をかけ、スタッフになる契約を取り付ける。トランブルの大胆な行動に影響されたのがペダーソンで、さらにアニメーターのコーリン・キャントウェル(*5)と撮影監督のジム・ディクソンもグラフィックフィルムズに辞表を出し、4人で英国へ渡った。
*4:ノヴロスは、南カリフォルニア大学映画学科の終身教授も兼任(1985年に退職)しており、その教え子にはジョージ・ルーカスもいる。
*5:キャントウェルは、『スター・ウォーズ』(1977)に登場する宇宙船のコンセプトモデルも手掛けている。