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『2001年宇宙の旅』キューブリックが徹底研究した作品と、集められたスペシャリストたち
『2001年宇宙の旅』あらすじ
人類がまだ見ぬ宇宙の領域に足を踏み入れた宇宙飛行士ボーマン(キア・デュリア)は、不滅の存在へと昇華していくのだろうか。「HAL、進入口を開けろ!」という悲痛な願いと共に、無限の可能性に満ちた未知への旅を始まる。
『2001年宇宙の旅』がいつ観ても古さを感じさせないのは、その後のSF作品を一変させてしまったメカデザインや、セット、ミニチュア、特殊メイクなど、美術全般の魅力が大きい。そして何より、とんでもなくリアリスティックな画面を実現させた、高度な特撮技術(*1)の貢献を忘れてはならない。本来であれば、製作・配給を手掛けたMGMのスタッフが、特撮も担当するべきなのだろう。だがこの時期、ほとんどのハリウッドの撮影所は特撮課を廃止してしまっており、スタンリー・キューブリックは新たにスタッフを見つけることからスタートしなければならなかった。
Index
NFBの科学教育映画『Universe』
『2001年宇宙の旅』のビジュアルに、直接的に影響を与えた短編映画が2本ある。1本はNFB(カナダ国立映画制作庁)が制作した『Universe』(1960)(*2)だ。白黒の地味な教育映画だが、精密な宇宙の特撮映像が随所に用いられており、キューブリックはプリントを数本ダメにしてしまうほど、何度も繰り返し観ている。
そして、この映画を監督したローマン・クロイター(*3)とコーリン・ローがキューブリックのオフィスに招かれ、数回のミーティングを重ねた。筆者は、クロイターらと2年間仕事をしたことがあったので、その時にこの会合の様子を聞く機会があった。ローは、キューブリックが原作者であるアーサー・C・クラークのビジョン(特にスターゲート以降の抽象的世界観)を理解できないようだったので、「我々が絵を描いてイメージを具体化させた」と語っていた。
『Universe』
ちなみにこの時代、クロイターやローたちはNFBの“ユニットB”と呼ばれ、短編映像業界のスター的存在だった。実際に彼らが生み出した“シネマヴェリテ”という手法は、世界中のドキュメンタリー作家たちに多大な影響をもたらしている。そのため、カナダ政府は 彼らの独立を認めず、モントリオール万国博覧会(Expo’67)のテーマ館である「ラビリンス」の企画・演出を命じてしまう。そんなわけで、彼らは早々に『2001年宇宙の旅』から降りざるを得なくなった。
諦めきれなかったキューブリックは、『Universe』の特撮を担当していたウォリー・ジェントルマンにだけは残って欲しいと懇願。そこでジェントルマンはNFBを辞め、『2001年宇宙の旅』の初代特撮スーパーバイザーに就く。実際に彼が手掛けたシーンは多いのだが、完成した映画にはクレジットされていない。その理由は、キューブリックのエキセントリックな性格に精神的に疲れきり、手術を必要とするほど体調を悪化させ、1967年初春にカナダへ帰国してしまったからだ。
*1:この映画が公開された1968年は、ビジュアル・エフェクトという英国式表記がアメリカでは普及していなかったため、スペシャル・フォトグラフィック・エフェクトという長い役職で呼ばれていた。
*2:キューブリックは、『Universe』のナレーターを務めていたダグラス・レインを、『2001年宇宙の旅』コンピューターHAL9000の声優として雇っている。