2026.01.16
声を聞き取れなかった世界
本作が、デヴィッド・リンチ自身が演じるFBI捜査官主任ゴードン・コールのショットで始まるのは、きわめて象徴的だ。秩序を与えるはずの捜査者=作者が最初に姿を現しながら、その秩序がまったく機能しないことを、映画はすぐに証明してしまう。
ゴードン・コールという名前が、ビリー・ワイルダーの名作『サンセット大通り』(50)から取られていることは、本人が明言している(*4)。彼によれば、同作に登場するゴードン・コールはパラマウント・スタジオ側の人物で、没落したスターのノーマ・デズモンドに電話をかけ、車を借りようとする存在だという。そしてリンチは、ビリー・ワイルダーがパラマウント・スタジオへ向かう際に「ゴードン街」を通り、次に「コール街」を通ることから、この名前を思いついたはずだと語っている。
つまり『ツイン・ピークス』におけるゴードン・コールという名は、ハリウッドそのもの、そしてビリー・ワイルダーへのオマージュとして意図的に与えられた名前なのだ。ゴードン・コールは単に奇妙なFBI捜査官ではなく、夢を生み出し、管理し、そして切り捨ててきたハリウッドの側――『サンセット大通り』が暴き出した〈映画産業の冷酷な視線〉を引き受けた存在なのである。
この視点に立つと、『ツイン・ピークス/ローラ・パーマー最期の7日間』が描こうとしたものが、よりはっきりと見えてくる。本作は、『サンセット大通り』が描いたハリウッド神話を、地方の少女の身体にまで引きずり下ろす映画だ。ノーマ・デズモンドが、スターとしての価値を失った瞬間に切り捨てられた存在だとすれば、ローラ・パーマーは、最初から欲望を受け止める器として周囲に配置され、消費され続けた存在だった。

『ツイン・ピークス/ローラ・パーマー最期の7日間』(c)Photofest / Getty Images
リンチが描くのは、大人たちの欲望、共同体の沈黙、制度の無関心が、ひとりの少女の身体をどのようにすり減らし、逃げ場を奪い、破壊へと追い込んでいくのか、その過程そのものを、観る者が目を逸らせないかたちで突きつける映画なのである。
しかもゴードン・コールというキャラクターは、極度の難聴という設定を与えられている。秩序を司り、真実を聞き取るはずの立場にありながら、最も重要な声を聞き逃してしまう存在。リンチは自らを、救済する作家としてではなく、制度と権力の側に立ちながら、なお声を聞き取れなかった者として配置してみせたのではないか。
そう考えるとこの作品は、最近になってようやく描かれるようになってきた「声なき被害」の構造を、時代に先んじて描いていた映画ともいえる。ただ、おそらくリンチは加害者を断罪することにも、被害者を象徴化することにも関心がない。リンチが見つめていたのは、声を上げられなかった個人と、その声を聞き取れなかった世界の側だった。
『ツイン・ピークス』には、ホワイト・ロッジなる光の世界と、ブラック・ロッジなる闇の世界とが対になって存在しているという設定があるが、もはやこちら側=ホワイト・ロッジにも、守ってくれる秩序や救済は存在しないことを、この映画は証明してしまっている。警察も、FBIも、家庭も、学校も、共同体も、誰ひとりとしてローラを安全な場所へ導くことはできなかったのだから。
『ツイン・ピークス/ローラ・パーマー最期の7日間』は、謎を解決する物語ではない。制度も共同体も、そして作者自身さえもが、ローラの声を聞き取れなかったという事実を突きつける映画だ。ローラ・パーマーの死に最も取り憑かれていたのは、他ならぬデヴィッド・リンチ自身だった…その自覚こそが、本作を神話の再生ではなく、神話の解体へと導いている。
(*1)(*2) https://bleedingcool.com/tv/twin-peaks-season-2-revealed-laura-palmers-killer-because-of-network
(*3) https://ew.com/article/1992/09/11/twin-peaks-fire-walk-me/
(*4) https://www.filmart.co.jp/sample/14291/
文:竹島ルイ
映画・音楽・TVを主戦場とする、ポップカルチャー系ライター。WEBマガジン「POP MASTER」(http://popmaster.jp/)主宰。
(c)Photofest / Getty Images