1. CINEMORE(シネモア)
  2. 映画
  3. 海辺の恋
  4. 『海辺の恋』三つの海による交響楽、美しさを反抗の手段とする
『海辺の恋』三つの海による交響楽、美しさを反抗の手段とする

©1965 Films Galilée

『海辺の恋』三つの海による交響楽、美しさを反抗の手段とする

PAGES


美しさを反抗の手段とする



 離れている間、ジュヌヴィエーヴはダニエルに手紙を書く。ダニエルはジュヌヴィエーヴの思いを大切にしていない。ギィ・ジルがダニエルの友人ギィを演じている。ギィは恋人を大切にできないダニエルの態度に懐疑的だ。白黒画面で描かれたブレストのカフェでギィとダニエルは向き合う。ギィは自身の16歳の頃の話をする。母親の肖像画を抱え、パリに到着する家出少年のエピソードは、ギィ・ジル自身のことを語っている。パリの回想シーンはカラー映像で描かれている。都市を観察する放浪者。毎日が発見の連続だった若い頃。少年時代を回想する一連のシーンは、フランソワ・トリュフォーの『大人は判ってくれない』(59)における、アントワーヌ・ドワネル(ジャン=ピエール・レオ)のイメージを想起させる。


 アルジェリアで生まれたギィ・ジルは、アルジェリア戦争が激化していた1960年にパリに旅立っている。アルジェの美術学校に通っていた彼は、結婚前の母親が画家志望だったことをとても大切に思っていた。自身の兵役中に亡くなった母親と故郷の風景の影が、『海辺の恋』という作品に色濃く投影されている(ジルという芸名は、母親の“ジレット”を元にしている)。故郷のイメージ。子供時代にスクリーンで夢中になった映画スターを、ギィ・ジルは愛し続けていた。『海辺の恋』では、戦後のフランス映画で活躍した俳優であり歌手のリリ・ボンタンが歌を披露している。リリ・ボンタンがツアーでアルジェリアに訪れたとき、ギィ・ジルは彼女を追いかけていたという。リリ・ボンタンは、“誰のものでもないローラ”に関する曲を歌う。ジャック・ドゥミの『ローラ』へのリスペクトが、美しく昇華されている。



『海辺の恋』©1965 Films Galilée


 ギィ・ジルはドキュメンタリー作品の中で語っている。「映像(イマージュ)とは鏡であり、二重のポートレートである」と。線と形と色。ギィ・ジルは画家のように映画を撮る。画家のようにフィルムに色を塗る。『海辺の恋』で、カラーで撮られたギィの少年時代が魅力的なのは、印象派絵画のような色彩が登場人物の主観的な色彩のように感じられるからだ。実際の線や形や色が、それぞれのキャラクターの主観によって線や形や色を変容させていく。そこには観察がある。温度がある。対象との感情の交通がある。ギィ・ジルの映画は、記憶の中にある線や形や色を何よりも信じている。イメージの正確性は記憶の中にこそあるのだと。主観的な海の色彩。主観的な街の色彩。ネオンに彩られたパリのピガール地区に到着したダニエルは、少年時代のギィの話を思い出しながら、夜の都市を歩いているのだろう。ダニエルは恋人のジュヌヴィエーヴ以上に、ギィへの親愛を抱いているように見える。ダニエルは決断する。


 ジュヌヴィエーヴ、ダニエル、ギィが通り過ぎていった海。それぞれの海が奏でる交響楽。ギィ・ジルはフィルムに色を塗る。記憶の中にある主観的な色彩が、美しい息遣いとなり、キャラクターのドキュメンタリー性に昇華されていく。そのとき彼の映画の美しさと儚さは、現実に抗う反抗の手段となる。『海辺の恋』は、私たちの人生における、理解できるものと理解できないもの、現実と空想、明瞭さと不明瞭さの交差点であり続けている。



文:宮代大嗣(maplecat-eve)

映画批評。「レオス・カラックス 映画を彷徨うひと」、ユリイカ「ウェス・アンダーソン特集」、リアルサウンド、装苑、otocoto、松本俊夫特集パンフレット等に論評を寄稿。




『海辺の恋』を今すぐ予約する





作品情報を見る



『海辺の恋』

シアター・イメージフォーラムほか全国順次公開中

配給:クレプスキュール フィルム

©1965 Films Galilée

PAGES

この記事をシェア

メールマガジン登録
  1. CINEMORE(シネモア)
  2. 映画
  3. 海辺の恋
  4. 『海辺の恋』三つの海による交響楽、美しさを反抗の手段とする