2018.11.22
彼女の物語はすでに前作で完結済みだった?
世の中のシリーズ物では、一作目の主演俳優が続投しないケースもゼロとは言えない。『羊たちの沈黙』(91)のジョディ・フォスターは続編の『ハンニバル』(01)には出演しなかったし、『スピード』(94)のキアヌ・リーヴスだって続編ではまるっと姿を消した。スケジュールやギャランティの折り合いがつかない場合もあるだろうし、続編の内容に賛同できなかったり、そもそも同じ役は演じたくないというポリシーを持つ俳優だっている。
だが、当然ながらこの『ソルジャーズ・デイ』はそれらとはだいぶ事情が違う。そもそも続編製作が決定してまだ間もない頃には「エミリー・ブラントも出演する予定」と報じられていたのだが(彼女もそのつもりだったにちがいない)、しかし蓋を開けてみるといつしかブラントの名前は消えていた。
『ボーダーライン:ソルジャーズ・デイ』(c)2018 SO
名誉のために言っておくと、何か彼女がトラブルを引き起こして降板させられたわけではない。実のところ、監督のステファノ・ソッリマが最初のドラフトに目を通した時点ですでに、エミリー・ブラント演じる役柄は姿を消していたらしい。脚本家テイラー・シェリダンの頭の中には、当初から「エミリー・ブラントなし」の物語が構築されていたのである。
それはなぜか? シェリダンによれば「彼女についての物語は、第一作ですでに完結してしまった」のだとか。そう言われて改めて振り返ってみると、彼女が一作目で担っていたのは、『ボーダーライン』のあまりに危険で血なまぐさい世界を覗き見るための言わば“フィルター”のような役割だった。これは「事件の目撃者」、あるいは「観客の分身」と言い換えることもできるのかもしれない。私たちはいつも「主人公」と聞くと、その人物が中心となって物語を能動的に切り開いていくものと考えがちだが、シェリダンはそのありきたりな概念をぶち壊し、彼女の存在を「何も知らない一人の常識人」として位置付けたわけである。
そう考えると、幾つか合点のいくところが思い当たる。例えば、前作では二人の男(ジョシュ・ブローリン、ベニチオ・デル・トロ)の人間性がどこまでいっても見えてこず、我々は彼らの神をも恐れぬ行動にただただ翻弄され続けるしかなかった。これは我々があくまでエミリー・ブラント演じる役柄の“常識のフィルター”を通じて彼らを見つめていたからなのだろう。
さらに前作のクライマックスでは、カメラがよりによって主人公を置き去りにし、急遽ベニチオ・デル・トロの視点に立って暴走を始める瞬間があったのを思い出す。今考えるとあの時点でこの映画は早くも、エミリー・ブランド演じる役柄に完全に「別れ」を告げていたのかもしれない。
このようにして、映画を覆っていた「フィルター」はついに剥ぎ取られ、二作目ではその剥き出しのストーリーと男たちの本性がフルスロットルで解き放たれる。狂気も、悲しみも、苦しみも倍増。我々はすべての成り行きを自分の目で、じかに目撃することとなる。この『ソルジャーズ・デイ』がまるで傷跡に塩を塗るかのような激しさと生々しさで我々に衝撃を与えてやまないのもそのためだ。