“歩く”という究極の運動
かつて活動写真と呼ばれたように、映画とは本来カメラの前で動く被写体の運動を捉えるメディアだ。そして、映画における究極の運動が「歩く」という行為である。
ヴィム・ヴェンダース監督の『パリ、テキサス』(84)の冒頭が、赤いキャップを被った男が荒野を歩き続ける姿だったように、あるいはロベール・ブレッソン監督の『スリ』(59)が、人物の足元の移動のみで劇的なサスペンスを生み出したように。『メモリィズ』(26)はその原点に立ち返るように、とにかく主人公の雄太が歩いて、歩いて、歩き回る。劇的なセリフや派手な事件がない代わりに、歩行という身体的なアクションが、映画全体のエンジンとして機能しているのだ。
柄本佑の言葉を借りれば、俳優が一番最初にぶち当たる壁が歩くことだという。ただフラットに道を歩き、ただフラットに立ち止まる。雄太は自らの足で、見知らぬ大分の風景を測量していくかのように歩を進める。そのストロークの心地よいリズムが、そのまま映画の呼吸になっていく。あえて表現をやり切らずに、自分の中にわざと隙間を残す。隠された部分、見せない部分があるからこそ、我々観客はただ歩き続ける彼の内面を凝視したくなる。
そして、この歩くという行為は、毎日のルーティンとして繰り返されることで、やがて定点観測的な意味合いを持ち始める。毎日決まった時間に犬と散歩に出かける雄太の反復運動によって、彼の歩みはまるで空間に縛られた変則的ロードムービーのような様相を呈していく。いつも同じ道を歩くからこそ、風景の微かな差異が浮き彫りになるのだ。

『メモリィズ』©2026LittleMore
犬との散歩では一本道を自転車で走り抜ける女性とすれ違い、誠の家に行く途中では木々の間に佇む馬を眺める。その反復する動きのなかで、最初は馬と飼い主がセットで画面に収まっていたのに、途中から馬だけになり、人がフッと消えている。こうした細部の恐ろしいまでの引き算が、ただそこにある世界を記録したドキュメンタリーのような手触りを与えている。
しかも、そのドキュメンタリー的な世界を、なんと全編フィルムで撮影しているというのだから正気の沙汰ではない。誰もがスマホを取り出し、タダで無限にデジタル動画を撮りまくれる現代において、坂西監督はあえて撮り直しのきかない、お金も手間もかかるアナログフィルムを選んだ。
半永久的にデータを保存できるデジタルとは違い、フィルムは時間とともに退色し、いつかは劣化していく。それは、永遠には留めておけない人間の記憶そのものに近いメディアだ。そのフィルムという物質の特性がもっとも生かされているのが、物語の終盤に訪れる野焼きのスペクタクルシーンだろう。
本物の炎のうねりと、パチパチという圧倒的な環境音。その荒々しい光景に、ゆきはポツリと「綺麗」とこぼす。すべてを焼き尽くす炎のなかに見出した一瞬の美しさ。それを、いつかは色褪せていくフィルムの粒子に定着させることの切実さが、このシーンには充満している。