日常に侵食する死者の気配
この映画にはもう一つ、裏の顔が隠されている。それは画面内に遍在する“死者”たちの気配であり、映像メディアが本来持っている霊性だ。死んだ佐々木さんの痕跡、すでに亡くなっている義母の留守番電話の声。生者の物語でありながら、常にフレームの外側、あるいは過去という時間にいる死者たちが、生者たちを静かに取り囲んでいる。
その死者の気配が、一気に画面を侵食する瞬間がある。知人の葬儀場へと向かう誠たちを捉えた不穏なロングショット。式場の参列者たちが、気づけばふっと消えている。この世ならざるものを見てしまったかのような恐怖。この葬式の後から、のんびりしたロードムービーの空気が一変し、町にフッと死の匂いが充満する。
やがて雄太は、暗いトンネルへと足を踏み入れる。鈴木清順監督の『ツィゴイネルワイゼン』(80)を彷彿とさせるような、生と死を隔てる異界の入り口。チャリンチャリンという無機質なベルの音を響かせながら、雄太の横を通り過ぎていく三人の家族を乗せた自転車は、まるでこの世を彷徨う亡霊のよう。日常の風景のなかに、突如として彼岸の空気が入り込む。

『メモリィズ』©2026LittleMore
死者の気配は、誠が古いスライドプロジェクターで過去の写真を映し出すシーンで、一つの極点へと達する。カタッ、カタッという機械音とともに暗闇に浮かび上がるのは、すでにこの世にはいない亡き義母と、子供の頃のゆきの写真だ。そこに、現在を生きるゆきとはなの動画が、精密なカッティングで交錯していく。
過去の母娘と現在の母娘が、死者と生者が、次元を超えて同じスクリーンの上で並んで歩き始める。この美しくも厳かな交錯こそが、本作における霊性の姿だ。それは死者を光と影の中に留め置き、いつでも生者と再会させることができるという、映画というメディアへの熱烈なラブレター。我々は、映画が「時間を保存するタイムマシン」であることを、不気味な怪異としてではなく、このうえなく豊かな祝福として思い知らされる。
そしてラスト。誠の部屋の窓越しに、凄まじいスピードで春夏秋冬が切り替わっていく。そこにはもう誰の姿もない。ただ、無人の風景のなかを、季節だけが残酷なほどの美しさで駆け抜けていく。だが、誰もいないその空間には、確かに無数の記憶が堆積している。人の姿が消え去った後も静かに定点観測を続けるこの窓(=ファインダー)は、あらゆる生の営みを等しく受け入れ、光と影のなかに永遠に保存し続けるという、映画というメディアの行き着く果てを力強く提示している。
全く、坂西監督はなんという映画を撮ってくれたのだろう。タイパ重視のコンテンツが溢れ返る現代において、これほどまでに観客の想像力と知性を信じ、計算し尽くされた構図と歩行の運動性だけで映画的な快楽を突きつけてくるとは。『メモリィズ』は静謐で豊かな余韻を持った、とてつもないフィルムである。
文:竹島ルイ
映画・音楽・TVを主戦場とする、ポップカルチャー系ライター。WEBマガジン「POP MASTER」(http://popmaster.jp/)主宰。
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『メモリィズ』
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配給:リトルモア
©2026LittleMore