2026.07.23
期待への裏切り=予定調和からの逸脱
このローラという役柄は、よくあるホラー映画の異常な殺人鬼とは、描き方が異なっている。ローラは我が子を亡くした絶望に押し潰されながら、それでも純粋な愛情を持ち続け、母親であり続けようとする。その感情は病的で有害ではあるものの、十分理解できるものとして表現されている。そうした描き方が、観客が彼女を安易な悪として切り捨てることを許さず、映画全体に逃げ場のない“やりきれなさ”を充満させていく。
フィリッポウ兄弟の前作『TALK TO ME/トーク・トゥ・ミー』では、自分を本当に思いやる周囲の警告を退け、自らを死へと誘う死者の声を信じたことで転落していく者が描かれた。最も信じるべき存在を拒絶し、自分を破滅へ導く他者の声に耳を傾けてしまうという悲劇的な要素は、本作『ブリング・ハー・バック』においても反復されている。
劇中、妹パイパーは、自分を命がけで守ろうとする兄アンディの献身を疑い、母親として振る舞うローラの声を信じ込んでしまう。この理不尽さには、現実の人間関係における、歪んだ依存関係の構造が反映されているはずだ。本作の恐怖表現が、オカルトやホラーの枠を超えて迫ってくるのは、この人間の心理的なエラーが、日常と地続きにある現実の恐怖として描かれているからだといえよう。

『ブリング・ハー・バック』© 2025 RACKAWAY PTY LTD All Rights Reserved
だが、本作の最大の特徴であり、同時に最も議論を呼ぶであろうポイントは、作中における脅威そのものであるローラの内面に迫る描写が、大きな割合を占めている点にある。映画は彼女の狂気を、外部からの災厄やモンスターとして見せるのではなく、我が子を失った喪失感や、崩壊していく精神に肉薄していく。その結果、加害を繰り返す彼女を冷酷な犯罪者として憎悪すべきなのか、あるいは悲劇の被害者として憐れむべきなのか、観客は、感情のやり場を途中から見失ってしまうのだ。この倫理的な宙づり状態が、観客に割り切れない不快さと、強烈な居心地の悪さを強いてくる。
本来、フィリッポウ兄弟に期待されていたのは、明快で容赦のない、ホラーとしてのドライブ感であり、勢いのある演出スタイルであったはずだ。しかし、ローラという加害者側のエモーションに深く寄り添う今回の演出上の趣向は、ジャンル映画としてのサスペンスの駆動を弱め、映画全体の推進力を減じる結果となっていることは否めない。
本作の仕上がりが、前作の持っていたケレン味や、娯楽映画としてのカタルシスに及ばないという指摘は、一面では妥当なものといえるだろう。一方で、その期待への裏切りこそが、本作を従来の娯楽ホラーの予定調和な枠組みからはみ出させる契機を作っている。