2026.07.23
“自分たちの声”に嘘をつかない
物語の終盤、加害者であったはずのローラの暴走は、ある断念によって、唐突に幕を下ろす。その引き金となるのは、まさに殺されようとしていた少女パイパーが口にする、かすかな一言だ。それまでのローラにとって、引き取った子どもたちは失った我が子の身代わりでしかなかった。しかし、パイパーが放ったその言葉は、目の前の少女が自らの所有物ではなく、彼女を愛し守る関係があったことを示唆する。この瞬間、ローラは自らの狂気を手放すのである。
この他者の存在の示唆によって断念が生まれるという構図は、TVアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』(95~96)における、碇シンジと惣流・アスカ・ラングレーの一場面にも見られる。アスカに唇を重ねようとしたシンジが、彼女がうわ言で発した、ある言葉によって、身勝手な行動を思いとどまる。
もちろん、本作のプロットと直接的な因果関係があるのかは定かではない。その上でなぜ『新世紀エヴァンゲリオン』の話をここで出したのかというと、筆者は、かつてフィリッポウ兄弟に『TALK TO ME/トーク・トゥ・ミー』日本公開の際にインタビューをし、直接話を聞いているからだ。

『ブリング・ハー・バック』© 2025 RACKAWAY PTY LTD All Rights Reserved
彼らは熱狂的な日本アニメのファンであり、とりわけ『新世紀エヴァンゲリオン』については、隙あらばというほどに何度も言及し、作品のテーマにかかわる部分まで例に挙げていた。だからこそ、たとえ無意識であれ、本作でもそれが血肉となって表出しているのではないかと、筆者には思えるのである。
彼らはさらに、映画業界で自分たちを差別化し勝ち残っていく要素として、絶対の自信があるのは、“自分たちの声”なのだと、筆者に語ってくれた。大きな企画から降りた経緯や、本作がアンバランスな仕上がりになったのも、彼らフィリッポウ兄弟が、自身の声に嘘をつかなかったからなのだろう。そこは、一貫したものがある。
こうして生まれたローラというキャラクターを、われわれ観客がどうしても責めきれないのは、他ならぬ自分自身もまた、最も愛する者を救い出すためならば、見知らぬ誰かを犠牲にする狂気を秘めているかもしれないと自覚しているからではないか。
逆に、もし自分はそんなことは絶対にしないと理性的に断言できるのだとすれば、それは私たちが社会的な正しさを持っていることの証明であると同時に、自らの人生において、すべてを犠牲にしてでも守りたいと思える存在を持ち得ていないということなのかもしれない。こうした気づきこそが、本作が最終的に醸成した、潜在的な恐怖だといえるだろう。
文:小野寺系
映画仙人を目指し、さすらいながらWEBメディアや雑誌などで執筆する映画評論家。いろいろな角度から、映画の“深い”内容を分かりやすく伝えていきます。
Twitter:@kmovie
『ブリング・ハー・バック』を今すぐ予約する↓
『ブリング・ハー・バック』
新宿ピカデリーほか全国公開中
配給:ハピネットファントム・スタジオ
© 2025 RACKAWAY PTY LTD All Rights Reserved