世界映画史との交差点、生活としてのクィアネスの先駆性
『ハッシュ!』を世界映画史の文脈で見ると、その独自性はさらに際立つだろう。1990年代は、クィア映画が“社会問題としての表象”から“生活としての表象”へと移行する大きな転換期だった。
ニューヨークのゲイ&レズビアン(LGBTQ+)映画祭の歴史は、1988年に設立された「NewFest」から始まる。エイズ危機の最中にクィアの可視性とポジティヴな志向を求めて誕生。日本でも1992年、のちに「レインボー・リール東京」と改称される、東京国際レズビアン&ゲイ・フィルム&ビデオ・フェスティバルがスタートした。こうした新しい潮流と呼応して、映画評論の領域でもデレク・ジャーマン、トッド・ヘインズ、グレッグ・アラキら、同性愛や性的マイノリティを公言する気鋭作家たちの鮮烈な作品群を指す「ニュー・クィア・フィルム」(もしくはニュー・クィア・シネマ)というタームが定着していった。
この90年代の状況──クィアネスが閉ざされた領域から生活の風景へと解き放たれた時代──を踏まえると、グザヴィエ・ドラン(1989年生まれ)が自身の監督作『わたしはロランス』(12)の物語背景を90年代モントリオールに設定した理由もよく理解できる。後続世代のドランがこの時期を「鉄のシャッターが上がった時代」と呼んだのは、まさにクィア映画が新しい表現の地平を獲得した画期の季節だったからだ。
そういった渦中で、デビュー当初の橋口亮輔は、まさに日本からの代表的な旗手として「ニュー・クィア・フィルム」のシーンに迎えられたと言っていい。先述の著書「無限の荒野で君と出会う日」でも、1993年にニューヨークのレズビアン&ゲイフィルムフェスティバルで『二十才の微熱』が上映された際、2回共ソールドアウトだったと伝えられている。本作は国内外で大人気の“話題作”であり、当時30代前半の若き新鋭・橋口亮輔は彗星のごとく現れた“スター”であった。
しかし当の橋口監督は、こういったシーンの熱からは常に批評的な距離を置いていたように思われる。例えば1990年代初頭のクィア・カルチャーを同時代的にレポートする貴重な一冊、93年8月に発刊された「銀星倶楽部17/特集 クィーア・フィルム」(ペヨトル工房)に掲載された大木裕之、鈴木章浩との座談会の中で、橋口は「僕は映画を作っているつもりだから、意識してゲイに見えるようにとか、ストレートに見えるようにとか考えない……たんに映画を作ってるとしか思ってない」と発言している。このあまりにフラットな姿勢は、クィアネスの当事者性を尖鋭化させるシーンの風潮が強かった中で、極めて異色な印象を与えるものだったと思う。

『ハッシュ!』©2001 SIGLO
そして彼の“フラットな姿勢”がどれほど先駆的で、物語の構造そのものを更新する力だったかを雄弁に示したのが『ハッシュ!』の成果だ。橋口亮輔はここで、ゲイカップルと一人の女性が築く共同体を、特別な題材としてではなく、人が他者と関係を結ぼうとするごく自然な欲求の延長として置いた。人物の性的指向を強調したり、物語の前提として説明したりすることを避け、属性を中心に据えず、生活の流れの中でそっと立ち上がらせる。劇中の「いろんな枝葉があって俺なわけだし」(勝裕)という台詞が示すように、ゲイというセクシュアリティも人間の個性のワンパーツとして扱う。その姿勢が、家族の再構築を制度や理念ではなく、日々の選択と感情の揺れから描くことを可能にしている。
この視線は、のちに『ムーンライト』(16)や『君の名前で僕を呼んで』(17)が提示する“生活としてのクィアネス”を先取りしている──いや、むしろ『ハッシュ!』の方がすでに成熟した落ち着きを湛えていると言うべきだろう。また、日本のテレビドラマの系譜で見れば、よしながふみ原作の『きのう何食べた?』(19〜23)などに連なる“生活系BLドラマ”の偉大な源流として位置づけられるが、橋口の到達点は後続が容易に届かないほどの圧倒的な精度と洗練を備えている。