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『ヌーヴェルヴァーグ』何になるか分からないまま撮る勇気、そこから全てが始まる

©JeanLouisFernandez 

『ヌーヴェルヴァーグ』何になるか分からないまま撮る勇気、そこから全てが始まる

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表現の可能性としての“偶然”



 リンクレイター監督もまた、その瞬間を残したいから撮る、という意識に溢れた映画作家であることは言うまでもない。時間と空間を大きなテーマとしながら、監督作『ウェイキング・ライフ』(01)で語られていたような“聖なる瞬間”にフォーカスするように、「刹那が生み出す奇跡」を知的に考えると同時に、ある意味宗教的に信奉する部分もあるからだ。


 だが、ゴダールやヌーヴェルヴァーグの本質とは、そういった部分のみに収斂されるものではない。当時のアメリカ・インディーズ界は、フランス文化から距離があったからこそ、それ以外の点においても流入していたことが分かるのだ。リンクレイター監督がゴダールから受け継いだのは、“映画が既存の方法に従わなくてもいい、映画はもっと自由なものであり得る”という、根本精神なのである。


 『勝手にしやがれ』のような名作が、最初から名作だったわけではない。偶然や判断、失敗といった、撮影現場で起こったさまざまな出来事の積み重ねの結果として、後から名作になったのだ。しかし、我々が現在からそれを見るとき、すでに完成したものとして、歴史の洗礼を生き延びた名作として見てしまう。いまでは新作映画を観るときにおいてすら、SNSや周辺情報によって、人々の評判や批評家の評価などの先入観を持って映画に接することになる。


 とはいえ、現在撮られているどんな映画も、過去の名作と同じように、まだ何になるか、成功するかどうかも分からない状態にあることは変わらない。そして後世から見ると、それらの作品は一定の評価が定まり、名作かそれ以外かに、社会的に分けられてしまうということも事実。しかし、作られている瞬間、まだ未来が決まっていないという意味で、両者の間に本質的な違いはない。



『ヌーヴェルヴァーグ』©JeanLouisFernandez 


 ヌーヴェルヴァーグにとって重要だったのが、“偶然性”に対する態度である。脚本を書くところから編集するまで、完成版の映画フィルムが出来上がる過程には、おそろしいほど多くの不確定要素がある。監督や脚本家の最初の意図通りにはならない。つまり、映画は最初から最後まで、完全に人間の意志によって支配できるものではない。自然現象も、社会も、あらゆる創作物も、人生も、さまざまな条件の組み合わせによって、物事は“なるようになってしまう”。ヌーヴェルヴァーグとは、そうした世界の本質を、そのまま映画のなかに呼び込もうとした運動だったのだといえよう。


 通常の映画制作では、偶然はできるだけ排除しようとする。予定通りに撮影し、脚本通りに演技し、計画通りに編集していく。しかし、ヌーヴェルヴァーグやリンクレイターの一部の作品は、偶然を排除することを目指さない。むしろ、何が起きるかわからない状態に身を置き、偶然を障害ではなく、表現の可能性として受け入れる。そのためには、作り手も観客も、ある程度の曖昧さや“揺れ”に身を任せなければならない。本作の劇中でロベルト・ロッセリーニ役に言わせていた、映画における「必然と緊急性」とは対極にある考え方だ。


 芸術とは、「表現主義」に代表されるようなアプローチで、必ずしも何かを必然的に“象徴”しなくてもよい。むしろ、まだ意味になっていないものを、そのまま表現することもできる。すべてを象徴にしてしまうと、世界の複雑さが失われるということもある。つまり芸術は、答えを伝えるためだけに存在するのではなく、答えにならないものを、答えにならないまま示すことができるのだ。芸術はそこで、ある豊かさを獲得する。とはいえ、ゴダール自身も、その後政治的にメッセージ性の強い、必然的で緊急的な要素を含んだ作品に傾倒していくのだが。





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