分からないまま撮る勇気から、全てが始まる
しかし、ヌーヴェルヴァーグを自由で型破り、ルールを逸脱した映画だと、ただ漠然と広げて説明すると、それも大雑把な理解になってしまうかもしれない。本当の意味で彼らはただ自由だったのではない。ゴダールやトリュフォー、アニエス・ヴァルダも含め、彼ら「シネフィル」が映画を浴びるほど観ていたという事実は、既存の映画を熟知し、“型”そのものも非常によく知っていたことを示している。そのうえで彼らは、既存のルールに反することを、意識的に選択した。そこには、意識的な芸術的態度と知的な素養があるといえる。
そして彼らは、自分たちは何をしているのかを自覚しようと努力し、映画とは何なのか、芸術とは何なのかということを、絶えず考えていた。言葉を使って映画の芸術性に迫った、ロラン・バルトやアメリカのスーザン・ソンタグだってそうだ。もちろん、すべての作家が哲学的な言語を用いて考えていたわけではないだろう。しかし、彼らの映画作りや批評そのものが、そこを目指していたことは確かではないか。そしてそれは、非常に幸福な時代だったのではないか。

『ヌーヴェルヴァーグ』©JeanLouisFernandez
だからこそ、ヌーヴェルヴァーグやアメリカン・ニューシネマに憧れ、アメリカで類似した映画を撮ってきたリンクレイター監督は、いまの時代にも、そういった情熱的な映画への意識を持つことができるはずだし、持つべきだと、この映画を撮ることで主張したかったのだと考えられるのである。
リンクレイター監督が今回本作でおこなったのは、『勝手にしやがれ』が映画史上の名作であると社会が確定してしまった評価を、もう一度、結果のわからない状態に戻すことだったはずだ。そしてそこには、映画だけではなく芸術そのものへの問いがある。
芸術とは、完成され得る正解を再現することなのか、それとも、まだ意味になっていない世界に、自分から飛び込んでいくことなのか。そこに踏み出したときに、作り手は、失敗するかもしれない。誰にも評価されないかもしれない。それでも、自分がいま見ているものを、そのまま印象派のように見ようとする。世界や被写体に、人間としての感情や知性を持って、誠実に向き合おうとする。その結果として、偶然が何かを生み出し、奇跡的な瞬間が生まれる場合がある。そして、その偶然がたまたま歴史になってゆく。
しかし本当に大事なことは、結果ではない。成功するにせよ失敗するにせよ、まだ何になるか分からないものを、まだ何になるか分からないまま撮るという勇気から、全てが始まるということである。そこからでしか、世界は、歴史は変わらないのだ。本作『ヌーヴェルヴァーグ』は、そういう勇気を持ち続けて映画に取り組み、ゴダールと同様に、いくつかの奇跡の瞬間を生み出してきたリチャード・リンクレイター監督だからこそ描き得た、真の映画作家の目線による映画なのである。
文:小野寺系
映画仙人を目指し、さすらいながらWEBメディアや雑誌などで執筆する映画評論家。いろいろな角度から、映画の“深い”内容を分かりやすく伝えていきます。
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配給:AMGエンタテインメント
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