母親の失墜と重なる、ナチスの敗北
ナチス・ドイツは、ヒトラーの演説によって熱狂を生み出しながら、強権的な政治やプロパガンダを行い、誇大妄想的な思想のもとで無謀な戦争へと突入していった。もちろん、その戦争犯罪の中には自国民をも虐殺していたことが含まれる。国民の中にはそうした国の在り方に反対する者もいたが、ヒレやナニングのように、政権を支持する者たちが国家の威を借りて、戦争に反対する者や積極的でない者たちの脅威になっていたことは事実だろう。
ナニングがナチス・ドイツを正義だと信じるのは、無理もないことだ。政権が正しいという高圧的な教育を、母親から受けてきたのだ。そんな環境下において、国家に懐疑の目を向ける少年は、ほとんどいないだろう。それが不可抗力であると感じられるのは、彼がまだ子どもであるからだ。しかし、ヒレのように成人してナチス・ドイツに積極的に協力し、利益も得ていたような人物は、大人として国家の責任を一部負っているはずである。仮にナチス・ドイツが存続し、大人になったナニングが軍人や協力者になっていれば、彼もまたそうなったに違いない。

『白パンと独裁者』©2025BomberoInternationalGmbh&Co.Kg
政権が親であり、国民が子どもであるという見立てでいうなら、ナニングが発した「僕の親は悪人じゃない」という愛情ある言葉は、「自分たちの国家が間違えるわけがない」という愛国的な言葉に変換されることだろう。しかし彼がそんな母親の醜態を目にしたように、ナチス・ドイツが数々の犯罪を犯していた事実が、戦後日の光に照らされることになった。そのことで、ドイツは敗戦しただけでなく、国家として残忍で卑怯なことをしていたという現実に、国民たちは向き合わざるを得なかったのである。
そのように考えると、本作で描かれた白パンの美談や、少年の純粋な思いと努力に、胸を熱くしていた観客の立場も失われることになってしまう。少年の必死な行動に感動し共感する気持ちが、いかに素朴で純粋で、だからこそそれが間違っていないはずだという確信。だが、そうした思い込みは、“自分の親である”という、根拠にもならない根拠で親を擁護してしまう姿勢や、“自分の国である”という理由で自国の罪を否定するような素朴さに、どこかで接続されてしまうことにならないか。
母親の権威の失墜とナチス・ドイツの敗北を重ねることで、本作は、戦時下の苦労話や家族のつながりの物語であることを超え、観客の感情を問うような、ある種の告発としても機能することになる。過去を描きながら、現在の我々の生き方や感情の源泉を問うことにこそ、この映画の真価がある。
そんな様々な失墜を体験したナニングに、一つの奇跡が起こる。それは、これまで対立していた存在との交流である。戦争によって恐ろしい惨禍を受け、犠牲を目にしてきた者たちにとって、ナチス・ドイツの協力者は憎むべき相手だっただろう。しかし、立場や思想の違いとは別のところで、そんな関係だとしても心を通わせ、分かり合うこともあるのだ。
そして、やはり命を救うことが尊いことであり、思いやりこそが重要だという、本作で揺るがない価値観が前面に出てくる。そうしたフォローにはもちろん、ナニングの母親への感情への擁護も一部含まれていることだろう。感動を反転させることで観客に冷や水を浴びせかけた本作『白パンと独裁者』は、ここでもう一度、人間の感情を理性的に切り分けたうえで、観客の心に火を灯してくれるのである。
文:小野寺系
映画仙人を目指し、さすらいながらWEBメディアや雑誌などで執筆する映画評論家。いろいろな角度から、映画の“深い”内容を分かりやすく伝えていきます。
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『白パンと独裁者』
ヒューマントラストシネマ有楽町、新宿武蔵野館ほか全国順次ロードショー中
配給:ビターズ・エンド
©2025BomberoInternationalGmbh&Co.Kg