映画という降霊術
漫画やアニメの線で描かれたキャラクターとは違って、生身の俳優には体温があり、呼吸があり、肉体の重みがある。京本は漫画でその存在を与えられ、アニメーションで動きと声を与えられ、実写で蒔田彩珠という生身の人間の身体がスクリーンに刻み込まれた。ここに実写化の決定的な意味がある。
四季折々の自然光のなかで、二人がともに過ごした時間。蒔田彩珠という生きた人間がカメラの前に確かに存在したからこそ、彼女がふっと画面から消え去った後の空白が我々に深く突き刺さる。実写映画が記録しているのは、彼女を演じた俳優の呼吸、仕草、身体の重み、その瞬間にしか存在しなかった時間そのもの。だから京本が死んだ後も、彼女はスクリーンから完全には消えない。死者の身体そのものではなく、かつてそこにあった身体の痕跡が、映像として残り続ける。
そもそも映画というメディアは、かつてそこにあった光と音を記録し、スクリーンに蘇らせる装置だ。失われた過去を現在の空間へ呼び戻すという意味で、映画そのものが死者を招き寄せる降霊術としても機能している。
実写版『ルックバック』は、藤野が漫画を描くことで京本を現在に留めようとする物語を、映画そのものが別のかたちで反復しているといえる。藤野が線によって京本を描き続けるように、カメラは光と音によって京本の存在を記録する。漫画を描くことと、映画を撮ること。その二つはともに、そこにはもういない誰かを、現在の時間のなかに留めておくための行為なのだ。

実写映画『ルックバック』©藤本タツキ/集英社 ©2026 K2 Pictures・集英社
見えなくてもそこにいるという感覚は、実は映画のなかで密かに予言されている。藤野の母親は娘に、「ねえ、音はしないけど(京本が部屋に)いるんだよね?」と問いかける(このシーンは原作にはない)。姿が見えなくても、そして音が聞こえなくても、たしかに気配を感じることができる。そんな生者と死者の関係性が、京本が生きているうちから提示されていたのだ。
だからこそ、藤野は彼女を過去へ追いやることを拒絶する。藤野は、京本を美しい思い出として片付けるのではなく、ペンを走らせることで何度でも彼女を呼び戻す。
坂東祐大が手掛けたオリジナル・サウンドトラックの最後に収録された[再会]という曲には、メロディが一切ない。記録されているのは、ただひたすらに藤野がペンを走らせる音だけ。描くという行為そのものが、ここにはいない彼女を呼び戻す手段であることを示している。
「藤野ちゃんは、なんで描いてるの?」
劇中、京本はこう問いかけていた。始まりはささいな優越感だったのだろうけど、今は違う。藤野にとって描くこととは、京本を手放さず、二人の関係を決して終わらせないための祈りなのだ。
(※)https://lp.p.pia.jp/article/news/511239/index.html
文:竹島ルイ
映画・音楽・TVを主戦場とする、ポップカルチャー系ライター。WEBマガジン「POP MASTER」(http://popmaster.jp/)主宰。
実写映画『ルックバック』
全国公開中
配給:K2 Pictures
©藤本タツキ/集英社 ©2026 K2 Pictures・集英社