徹底的にディテールを描きこんだ高密度なタペストリー
もともとヒッチコックはジョン・バカン小説の大ファンだったとか。外交官、政治家、ジャーナリスト、カナダ総督、作家という多種多様な経歴を持つバカンの筆致に惹かれるのは当然だが、それ以上にヒッチコックを魅了してやまなかったのが、バカン小説が持つ「ドラマチックなアイデアを極めて控え目に、さりげなく表現してみせるという典型的なイギリス的資質」(*3)だったという。
その“イギリス的資質”は、もちろん映画版でも大切に受け継がれている。何というか、ハリウッド的な“派手さ”とはまた別のレベルで観客の心を静かに沸騰させる独自の魅力が満ち満ちているのだ。では、この高密度なストーリー、キャラクター、そして語り口は一体どのようにして培われたのか?
実はこの頃から、ヒッチコックは脚本家と共に「いかなるシーンも手を抜かずにディテールを徹底して描き込むこと」に努めていたという。まずは「台詞なし」の状態で書き始め、舞台設定やアクションや状況、そしてエピソード展開がたっぷりと盛り込まれていく。これはもしかすると、サイレント映画時代の名残とも言うべきものなのかもしれないが、とにかく本作は、すべてのシーンがオムニバス映画の一編として成立するくらいに「中身」を充実させていったそうだ。
なるほど、そうやって見ていくと、本作はあらゆる描写が研ぎ澄まされている。こと列車内では、新聞越しに見える乗客の目線や、車窓の流れ、すれ違う乗務員の仕草さえもが丁寧に紡がれ、主人公が逃げ込む農場では登場人物のささいな行動や目線が心をくすぐり、これらのちょっとした描きこみが、後に主人公の命を一発の銃弾から救う布石となっていく。その意味でも鑑賞するたびに実に発見が多く、まさに映画の教科書と呼びたくなるほどの濃密さなのである。
言葉を変えると、書籍「映画術」の中でヒッチコックは、本作のことを「タペストリー」(*4)とも表現している。「ここはもっと細かく色糸を使って布目に隙のないようにして、あそこは織り目に乱れが出ないように・・・」と全体と細部に注意を払いながらの映画作りは、確かにタペストリー職人による熟練の技のようだ。
『三十九夜』(c)Photofest / Getty Images
かと思えば、「ここぞ!」というタイミングで大胆な省略が飛び出すこともある。事情聴取の最中にガラスを蹴破って外へ逃げたり、死んだと思ったら生きていたり・・・。ここらに伴う、ついつい説明的になりがちな描写をすべてカットして、「そこで何が起こったのか?」をすべて観客のイマジネーションに委ねる。こういったスコーン!と突き抜けるような緩急のリズムも、ひとえにヒッチコックならではの演出の魔法と言えるだろう。
そして圧巻なのはクライマックス。三十九階段、マクガフィン(登場人物が追い求めるアイテムを表す専門用語)、そしてあのミスター・メモリーというすべてのカードが出そろい、思わず「あっ!」と声を上げてしまうような落とし所が待っている。序盤から我々のモノクロ映画への固定観念を幾度も打ち破ってきた本作だが、このラストはそれに輪をかけて実にお見事だ。
本作の公開から80年以上が経ち、流行や価値観といったものはかなりの変貌を遂げてきたはずなのに、それでもなおヒッチコックは新しく、斬新だ。いまだに我らをリードし続け、その差はおそらく永遠に詰まることはない。それゆえ人は彼を「映画の神様」と呼ぶのだろう。
*3) 「映画術」P.81、82より引用
*4) 「映画術」P.85より引用