2019.06.27
悲劇の恋人に象徴されたもの
ここで描かれるポーランド国内にも、国民の間で格差が存在している。もともと貧しい環境に育ったズーラと、比較的裕福な家で育ち教育のあるヴィクトルとでは、統制下の社会への反応も異なる。ヴィクトルは自由が奪われることに息苦しさを感じて亡命を企てるが、ズーラには最初から自由などというものはなかったのである。そして、政治状況が変わって生活がさらに悪化したとしても、そのことを政府と自分の問題として考えることができないのである。
このような状況は、文化大革命の時代の中国の状況のようでもあり、また経済格差が広がる傾向にある、現在の日本を含めた世界の様々な国にも共通するところであろう。
彼らが代表するのは、二つの階層であり、自国の政治に反逆する者と殉じる者という、対照的な市民の姿である。だが亡命を果たした者も、自国へ残った者も、やがて不満を覚えることになる。ヴィクトルはパリではそれほど自分の能力を発揮できずに、やがて母国を求めるようになり、情熱に生きるズーラは自由な世界を希求するようになる。彼らの本質部分は、むしろ選択した行動とは逆だったのかもしれないのである。
本作はここから異常な展開を迎えることになる。このような社会問題を背景に、いや、それをむしろ利用するようなかたちで、二人の間には“激情”と呼ぶには激しすぎる、まさに狂気そのものの愛が燃え上がるのである。ここに至って、やっとこの作品が描いているものが明らかになってゆく。
描かれる“愛”のかたちに共感できるかどうかは観客一人ひとりに委ねられるとして、ここで問題なのは、このような人間的な感情を自由に表へ出せない社会の息苦しさであろう。愛が狂気を帯びねばならない背景には、人間や人権を軽視する管理社会が存在する。それはまるで身分制度のある日本の江戸時代に流行した、町人の苦しみを描く人形浄瑠璃のようである。本作は、そんな時代錯誤的な社会への激しい怒りが込められているように感じられる。
そして、対照的な二人が引き裂かれ、それでも激しく求め合う姿は、異常な政治状況のなかにあって国内の人々が分断されていく象徴としての意味にも還元され得るし、同時に冷戦下の東西の価値観のメタファーに変換することも可能だ。