2017.09.22
テレビドラマがなぜ劇場公開されたのか?
日本映画監督協会新人賞受賞記念に深夜で再放送されるなど、『打ち上げ花火』をめぐる話題は1994年に入っても高まっていたが、異例の劇場公開の謎を解くには、当時の岩井俊二の活動に注目する必要がある。
1994年の夏、岩井俊二と豊川悦司、山口智子がプライベートで顔を合わせた。岩井と豊川は、『世にも奇妙な物語』の中の一篇『ルナティック・ラヴ』(94年)で初顔合わせを済ませ、山口とはこの前に雑誌『BRUTUS』の誌上ショートフィルムの企画で、岩井のアイデアをもとに山口の緊縛写真を撮っていた。この会合で、3人は自主映画的なノリで短篇映画を作ろうということになった。ちょうど、豊川は同時期に公開されていたギャスパー・ノエ監督の中編『カルネ』(91年)を観た直後だった。
『カルネ』は娘を溺愛する父親の不穏な雰囲気と血の匂いが漂うフランス映画で、3年遅れで日本のミニシアターで公開されて、話題を集めていた。そこで、緊縛+『カルネ』のノリで何か撮れないか、という話になった。それが『undo』(94年)である。
一方、岩井俊二にはちょうどオリジナル・ビデオ製作の話が進んでいた。『打ち上げ花火』でも実証されたように、テレビの枠内に収まりきらない岩井を活かす場として、映画はまだ無理としても、とりあえずオリジナル・ビデオで、まずは深夜ドラマとして放送された『FRIED DRAGON FISH』(93年)をリメイクする企画が動き始めていた。岩井は3人の会合の翌日、製作プロダクションに、リメイク企画は一度置いて、『undo』の話を持ち出した。岩井俊二と大ブレイク直前だった豊川悦司、トレンディドラマに映画へと最も旬の女優だった山口智子が揃うということもあり、岩井が拍子抜けするほど呆気なく『undo』の企画は通り、辺り構わず何でも縛り始める女性を描いた中編が製作された。ちなみに、延期された『FRIED DRAGON FISH』をリメイクするオリジナル・ビデオの企画は、その後映画で作ることになり、やがて『スワロウテイル』(96年)となって完成した。
話を戻すと、ビデオ発売にあたっては、もう1本、精神病院から抜け出した若い男女の寓話的な物語、『PiCNiC』と2本パックで発売することになり、連続して撮影された。『undo』は完成後、前宣伝もないままシネスイッチ銀座で1週間限定レイトショーを行ったところ、女性を中心に期間中、計2018名を動員。その頃、人気に火がつき始めていた豊川悦司に相手役が山口智子ということも大きかったが、これが岩井俊二の劇場公開初作品となった。
1995年、岩井俊二は『Love Letter』(95年)で長編監督デビュー。当時、劇場につめかけた観客の鑑賞動機は、主演の中山美穂、豊川悦司が目当てという答えよりも、圧倒的に「岩井俊二の作品が好き」「興味がある」「TVドラマが面白かったから」という回答が多かったという。その余波で『undo』はビデオ発売を延期して、劇場で再上映されることになった。今度は『PiCNiC』との2本立て上映である。
ところが、ここでトラブルが起きる。『PiCNiC』の上映が不可能になったのだ。理由は映倫である。映倫とは映画業界以外の第三者によって運営される自主規制機関であり、劇場公開する作品については、基本的にこの映倫を通して審査を受けることになる。『PiCNiC』について『映倫50年の歩み――映倫管理審査委員会』には、1995年の項目に「精薄者に薬物強制」とある。もう少し詳しい理由を、岩井俊二の著書『トラッシュバスケット・シアター』(角川文庫)から映倫とのやりとりを追ってみると、「病院の描写にウソがあるというのである。暴れているツムジに医者が鎮静剤を打つシーンがあって、精神病棟で患者に無理やり注射を打つような乱暴なことはしない、というのである」。この描写へのカット問題が尾を引き、既に『undo』『PiCNiC』2本立て用の予告編も完成していたが、急遽、『undo』の併映に差し替えられたのが、『打ち上げ花火』である。なお、『PiCNiC』は翌年に5分近くカットされたものが公開され、現在発売中のブルーレイには完全版が収録されている。