2019.09.19
すべてのものに存在する“アザーサイド”
当時、比較的まだ経済的に力を持っていた日本だが、イッセー尾形演じる人物の人間性は、台湾や日本を含めた世界がビジネスに狂奔するなかで、もう一方の価値観を象徴しているように感じられる。このような“もう一方の面”、“アザーサイド”が、本作のキーワードとなる。
本作の冒頭では、ヤンヤンの叔父の結婚式が描かれるが、そこに元恋人がやってきて常軌を逸した行動をとるように、ある人間にとって幸せな場所には、ある人間にとっての不幸が存在する場合がある。それはヤンヤンの姉が憧れる恋愛と、現実の恋愛の差異にも表れる。ものごとには表と裏があり、一方はもう一方のことを認識しづらい。そのような欺瞞をはらんだ現実的な構図に対して、ヤンヤンは子どもらしい純粋な態度で接する。
『ヤンヤン 夏の想い出』(c)Photofest / Getty Images
「お互い何が見えているか分からないとしたら、どうやってそれを教えあうの?」と疑問をぶつけるヤンヤンは、カメラを手にして、多くの人が興味を持たない物や、人々の頭の後ろ側を撮影していく。自分の幸せだけを追い求め、他の人間のことを考えない無神経な叔父のような人間に対しても、「自分では見えないでしょ」と鋭い指摘をぶつける。
『台北ストーリー』(85)や『恐怖分子』(86)などでも、都市の持つ負の部分を含め、台北の姿や台湾の風景を切り取ってきたエドワード・ヤン監督は、ここでも都市の影の部分を描いている。だが、影を生み出すのが光であるように、本作におけるヤンヤンの存在は、問題が渦巻く台湾の未来の希望となっているように見える。それを示すラストシーンが用意されているように、エドワード・ヤン監督の最後の完成作品が、こういった結末を迎えたことは、感動的ではないだろうか。