1. CINEMORE(シネモア)
  2. 映画
  3. プロジェクトA
  4. 『プロジェクトA』チャップリンからハロルド・ロイド、ブルース・リーからジェッキー・チェンへ。輪廻するアクション・コメディの因果
『プロジェクトA』チャップリンからハロルド・ロイド、ブルース・リーからジェッキー・チェンへ。輪廻するアクション・コメディの因果

『プロジェクトA』チャップリンからハロルド・ロイド、ブルース・リーからジェッキー・チェンへ。輪廻するアクション・コメディの因果


 70年代後半から現在に至るまで、常に第一線で活躍し続けているジャッキー・チェン。その彼を代表する作品といえば『プロジェクトA』(83)であろう。ジャッキー監督作としては4本目。製作当時の年齢は29歳。肉体的にも精神面でも、人気まで、正に脂の乗り切ったベストな状態だったと言える。 加えて『燃えよデブゴン』(78)のサモ・ハン・キンポーと『蜀山奇傅 天空の剣』(83)のユン・ピョウの、一枚看板になった京劇学校時代の仲間も集めた。


 『プロジェクトA』 とは、そんな好条件のロイヤル・ストレート・フラッシュのような作品なのである。


Index


若きジャッキー・チェンの苦悩と成功



 度重なる引退宣言を自分で反故にし続け、今でも現役アクション・スターとして年に2~3本(アニメの吹き替えなども含めれば4~5本)の出演作のある、超大スターであるジャッキー・チェンだが、そのキャリアは決して平坦なものでは無かった。


 『燃えよドラゴン』で、悪の首領ハンの手下としてブルース・リーにシバかれるなどの下積み時代を経て、アクション俳優として映画デビューを果たすが作品に恵まれず、一度は引退を覚悟した時期もあった。


 重鎮監督ロー・ウェイの映画製作事務所に“未来のブルース・リー”としてスカウトされるが、その条件は奴隷契約のようなもので、ギャラは安く、仕事はもちろん生活まで厳しく規約された(事務所の承諾なしに結婚も出来なかった)ヒドいものであった。



 

 しかも、ロー・ウェイの元で主演作になったのはブルース・リーの『ドラゴン 怒りの鉄拳』(72)の続編という、もはや負け戦にしかならない作品『レッド・ドラゴン/新・怒りの鉄拳』(76)。加えてロー・ウェイの高圧的かつ傲慢な仕事ぶりには辟易させられたそうだ。


 そんな悩める若きジャッキーの転機になったのがユエン・ウーピン監督との出会いとウーピン監督作『スネーキーモンキー 蛇拳』(78)『ドランクモンキー 酔拳』(78)である。


 『 燃えよドラゴン』(73)公開以降、日本を席巻した“ドラゴン・ブーム”で観る事の出来たブルース・リーの過去作品や、逆輸入の形で紹介された倉田保昭の出演作の登場人物たちは、悲壮的であったり、熱血的であったり、幅こそあれどおしなべて「負」の感情の強いキャラクターばかりであった。


 日本に関して言えば、ブルース・リーは登場した瞬間にはもはや故人であるという、絶対的な「負」を背負っていた。ブルース・リーの強力かつ強大な御威光を前に、多くの後発カンフー映画は戦いの悲壮感を奇妙に増殖させていった。そんな中で 『スネーキーモンキー 蛇拳』『ドランクモンキー 酔拳』 のジャッキーが特出していたのは軽妙さである。


 体全体を使っておどけたりハシャいだり。コロコロと変わる豊かで、ともすれば大仰ともとれる演技で人々を魅了した。特筆すべきは、その楽しい軽妙さが戦いの場でも持続しているところだ。



 

 特に『ドランクモンキー 酔拳』では、コミカルな動きを活かし、敵にどれだけ打ちのめされようとも、ふざけておどけて相手に立ち向かい、最期には倒してしまうのである。戦いに勝つとヤッタァ!と勝ちどきをあげる。そんな陽性の魅力は男性のみならず女性ファンまでも巻き込み、『スネーキーモンキー 蛇拳』はブルース・リー作品が持っていた香港での興行収入記録を塗り替えまでした。


 この成功でジャッキーはコメディアンとしての活路を見出す。また、やはりこの成功でロー・ウェイとの確執は香港の黒社会を巻き込んだ事件にまで発展したが、結果として二重契約状態だったゴールデン・ハーベスト社への移転も決まり、ジャッキーは晴れてスター街道を大手を振って歩き出した。そんな中で製作されたのが『プロジェクトA』である。



PAGES

この記事をシェア

公式SNSをフォロー

counter
  1. CINEMORE(シネモア)
  2. 映画
  3. プロジェクトA
  4. 『プロジェクトA』チャップリンからハロルド・ロイド、ブルース・リーからジェッキー・チェンへ。輪廻するアクション・コメディの因果