敬愛するイニャリトゥ監督の存在が支えに
Q:いわゆる「余命もの」に対する抵抗感やリアリティへの気概は、本作の端々から感じられます。
藤井:「余命もの」はある程度の枠がほぼ出来ていてコントロールしやすいし、商品化しやすい理由もすごくわかるんです。ただ僕には、なかなか受け入れられなくて。人間ってそんな簡素にできていないし、テンプレート化されちゃうことや、「余命もの」としてパッケージングされてしまう恐怖……。要は「メジャーに入るなら、そういうところに飲み込まれないといけないのか?」という葛藤がすごくあったんです。それがご遺族やプロデューサーの発言によって変わっていった感じですね。
僕はアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督の『BIUTIFUL ビューティフル』(10)が大好きなのですが、あれも言ってしまえば余命ものなんですよ。自分がすごく大好きな監督も“命”を扱った映画を撮っている。それも支えになりました。
『余命10年』©2022映画「余命10年」製作委員会
Q:本作だと序盤から傷病手当金の話題などが出てきて、「社会の中で生きている」ということがしっかり描かれているのが印象的でした。
藤井:一番大事にしたのは茉莉(小松菜奈)という人間の感情です。この映画がすごく運命的だなと思ったのは、全国民がこの2年間、押しなべて鬱屈した日々を過ごしていることでした。
自分たちがコロナ禍に入るまで、日常を過ごす中で見落としてしまっていたこと、そしてこの2年間で日々抱いている負の感情……、そういったものを茉莉の背中を通して感じていただけたらと思います。そして、生きているということや四季、市井の人々の暖かさを取り戻してくれる、映画としての役割があったらいいなと思います。これまでの作品には根底に社会への怒りや「抗う」といった感情が強くありましたが、『余命10年』の精神的属性は『宇宙でいちばんあかるい屋根』に近いものがありますね。
Q:『DIVOC-12』の『名もなき一篇・アンナ』に通じるものもありますよね。
藤井:おっしゃる通りだと思います。『名もなき一篇・アンナ』は『余命10年』があったからこそ書けた作品だと感じますし、2021年の6月まで茉莉の人生と向き合ってきた感情を転用させたものが、『名もなき一篇・アンナ』かもしれません。