ドキュメンタリー映画『はりぼて』(20)で、富山市議会の腐敗を笑劇として描き出した五百旗頭幸男監督。彼が活動拠点を石川県へと移し、世に問う新作『裸のムラ』は驚きの構造を持つドキュメンタリーだ。石川県知事の座をめぐる政治家の攻防、日本でムスリムとして生きる家族、そして自由気ままなバンライファー(車中泊などバンを利用したライフスタイルを楽しむ人)という全く接点のない3つの要素が等しく絡み合いながら描かれる。観客は戸惑いながらもやがて、この3つの視点から導き出されるムラ社会の本質を、自ら見つけ出していくことになる。それはまるで3方向から映写された異なる映像が中空の一点で交錯し、立体的な像を結ぶかのようだ。そしてその像は観る者の立ち位置によって全く違う顔を見せることになる。
この野心的なドキュメンタリーはどのようにして産み落とされたのか。北陸の地から日本人の本質を問い続ける五百旗頭監督に話を聞いた。
Index
接点のない三者の対比で見えるもの
Q:まず構成に驚きました。一見全く関係ない三者が交互に描かれながら最後に一つの像を結ぶ。なぜこのような構成になったのでしょうか。
五百旗頭:まず最初に、日本の男性中心のムラ社会が作り出す空気、忖度や同調圧力が強い空気をどう描くかというテーマがありました。その象徴として石川県の谷本知事の長期県政があり、そこに日本のムラ社会からはじき出されたムスリムを対比させて描こうと。でもそれだけだと、この社会の空気は描き切れない。それで、ムラ社会にいながら、それに影響されず、自由な生き方を貫いている人はいないかと探して出会ったのが、バンライファーの中川さんでした。この3つの要素を対比させることで展開していこうとしたんです。
Q:普段は互いに接点のない人々ですが、その対比がとても興味深く見られました。
五百旗頭:県政とムスリムの対比があり、バンライファーとして自由に生きている中川さんと、自由になりたかったのに結局ムラ社会の視線が気になって自由になれない人の対比もある。ムスリムの家族の中でもヒクマさんという女性は何でも自由に発言するけれども、それに対していかにも日本的な夫の松井さんがいる。そのお子さんたちも宗教に関しては思ったことを言えない事情が見えてくる。
『裸のムラ』(C)石川テレビ放送
そうした対比を絡ませていく中で、それぞれが抱える矛盾が見えてくるわけです。バンライファーの中川さんが一番わかりやすい。最初は自由に生きている人だと思ったら、実は娘さんを縛っている面もあり、彼自身も6社の広報活動をかけもっているからすごく忙しい。果たして本当に自由なのか分からなくなってくる。そういう矛盾を見せていくことによって、何も変わらない日本のムラ社会の「不変性」を感じてもらいたかったんです。それはシンプルな説明で見えてくるものではなく、いわば地下水脈がつながるような感覚で、作品を観ながら感じ取ってほしいと思い、あの構成にしました。
Q:被写体同士のつながりがわかりづらいからこそ、観客はそこから意味をくみ取ろうとするので、多様な解釈が可能ですね。
五百旗頭:そもそも複雑な「空気」を描く作品を単純なものにはできないわけです。いわゆるテレビのドキュメンタリーに慣れていると『裸のムラ』は「わかりにくい」と言われてしまう。でも観客が「これは、どういうことなんだ?」と想像をめぐらしたり、見終わった後も、「あれってどういうこと?」って話したくなる。それによって作品の価値が高まると思います。
Q:今回の複雑な構成で五百旗頭さんが一番悩んだポイントはどこでしょうか?
五百旗頭:やはり3つの要素の絡ませ方です。編集作業の中で完成前のラフな状態のものを配給の東風さんに一度見てもらったんです。実はその時は、映画の前半でバンライファーのストーリーを完結させていました。そのバージョンを見せて言われたのは「『裸のムラ』は三つ巴の良さ。本来絡まないものが絡み合って構成されているから『裸のムラ』なのでは?」という意見が出て「なるほどな」と。
僕は同時進行でテレビバージョン(「日本国男村」)も編集していたから、無意識に分かり易い構成にしてしまった所もあった。そこからもう一度考え直して、3つをうまく絡めて、終盤までバンライファーも出てくるような構成に変えたんです。そこは結構考えました。