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『カーテンコールの灯(あかり)』ケリー・オサリヴァン&アレックス・トンプソン監督 演じることを通して喪失と向き合う【Director’s Interview Vol.499】
大きな喪失を経験した人々が、深い悲しみや怒りと向き合い、自らを解放していくまで。数々の映画が描いてきたその過程は、普遍的だからこそ難しいテーマでもある。
小規模なインディペンデント映画ながら、アメリカで大きな反響を呼んだ『カーテンコールの灯(あかり)』が描くのは、ある悲劇を体験した家族が、喪失と向き合い再生するまでの時間。思いがけず地域のアマチュア劇団に参加し「ロミオとジュリエット」を演じることになった中年男性ダンが、初めての演劇経験を通して自分の感情を見つめ直し家族の絆を取り戻す。ときにコミカルに、けれど真摯なまなざしで描かれた物語は、静かだが強い感動をもたらす。
監督を務めたのは、『セイント・フランシス』(19)で主演・脚本を手がけたケリー・オサリヴァンと、監督のアレックス・トンプソン。実生活でもパートナーであり、次回作でも共に監督をする予定だというふたり。自分たちが暮らすシカゴの街を舞台に、親しい友人たちと一緒につくりあげたこの映画は、パンデミックの時期に思いがけず生まれたものだったという。製作までの道のりと、映画にこめた思いについて、ふたりにお話をうかがった。
『カーテンコールの灯(あかり)』あらすじ
建設作業員のダンは、近頃学校でトラブルを起こしてばかりの娘デイジーの対応に手を焼いていた。妻シャロンとの関係もぎくしゃくしているが、昔気質のダンは、自分の感情をうまく表現することができずにいる。そんなある日、彼は仕事中に偶然出会った女性リタから、思わぬ誘いを受ける。リタが参加する地域劇団で「ロミオとジュリエット」を演じてみないかというのだ。演劇経験など皆無のダンは慌てて断るが、いつしか稽古に参加し、演じることに夢中になっていく。そして役を演じるなかで、彼の抱える悲しみの正体が明らかになっていくーー。
Index
古典の持つ力を信じること
Q:『カーテンコールの灯(あかり)』を観て、演劇という芸術が持つ力を強く感じました。主人公のダンは、演じることを通して自分の感情を見つめられるようになり、仲間との間に親密なつながりを見つけていきます。舞台俳優としても活躍するケリーさんだからこそ、こうした演劇の持つ力を実感できたのではないでしょうか。
オサリヴァン:おっしゃるとおり、この映画をつくるきっかけは、私が何より演劇を愛していること、そしてここで描かれたような地域演劇に長年関わってきたことにあります。コロナ禍でのロックダウン中に脚本の執筆を始めたのですが、この間、多くの仕事仲間が失業し、感情を吐き出す場所がなくなっていくのを目にしました。悲しい現実を前に、自分がずっと愛してきた舞台という場所について物語を書くならどんなものになるだろう、と考えるようになりました。そしてこの思いをどう映画にしたらいいかと考えるうち、これまで演劇にまったく関わってこなかった人が何かのきっかけで演劇に触れ合うようになったら何が起こるだろうと、物語の発想が生まれてきました。
Q:物語の出発点はパンデミックでの体験だった、ということですか?
オサリヴァン:というより、これは歳をとることについての話だと言った方がいいかもしれません。歳を経たことでいろんなものに対する視点が変わってくると、よく言いますよね。私自身、歳を重ねるうち、今まで慣れ親しんできた作品の捉え方が大きく変わるという経験を何度もしました。「ロミオとジュリエット」でいえば、十代のときはバズ・ラーマン監督の映画を観て、なんてセクシーでロマンチックな話なんだろうと思っていたんですよね。でも今同じ映画を観ると、こんなにクレイジーでひどい話はないと驚いてしまいます。同じものを観ても年代によって感じ方は全然違うんだという実感と驚きが、この物語を書く出発点になったように思います。
『カーテンコールの灯(あかり)』©2024, Ghostlight LLC.
Q:たしかに私たち観客は、主人公のダンと共に、「ロミオとジュリエット」がどんな物語であったのかを一から見つめ直すことになります。劇の題材として誰もがよく知るシェイクスピアの話を選んだのは、おふたりが、古典の持つ力や可能性を信じているからと言えるでしょうか。
トンプソン:それは間違いないですね。私たちが生きる社会には常に古典の存在があって、映画でも演劇でも、みんな知らず知らずにその要素を取り入れている部分があると思う。逆に言うと、古典に対する新しい表現や解釈が生まれてきたときには、それぞれの資質が試されますよね。
たとえば最近見た「ハムレット」の劇でとても面白い解釈と出会いました。シェイクスピアの書いた戯曲は、父親の幽霊によって真実を知らされたハムレットが狂気を装い父を殺した相手に復讐を果たそうとする話として、長年受け止められてきました。でもその新しい劇では、実は父親の幽霊はハムレットが幻想の中で見ていたものにすぎない、という解釈を加え、まったく別の物語を展開していました。ハムレットは精神を病んでいて、何もない無に向かってずっと孤独に話しかけているだけ。彼の怒りや疑いには何の根拠もない。そういう話でした。この新たな設定をどう思うかは人によって好みが分かれるでしょうが、いまだにいろんな解釈が生まれてくるのは、もとになった戯曲がそれだけ力強いものだからです。
ちなみにアメリカでは「ハムレット」といえば高校生のときに読まされる戯曲というイメージがありますが、僕の場合は、小学校のときに演劇の小さな役で「ハムレット」に出演したこともあって、とても馴染み深い題材なんです。