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『Love Letter』岩井俊二監督×『東京日和』竹中直人監督 90年代、日本映画、そして中山美穂【Director’s Interview Vol.530】

『Love Letter』岩井俊二監督×『東京日和』竹中直人監督 90年代、日本映画、そして中山美穂【Director’s Interview Vol.530】

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日本映画の90年代



Q:90年代の日本映画界に対してどんな思いがありましたか。


竹中:90年代はぼくに映画の神様がついていたような気がします。日本映画低迷期と言われていましたが、そんなものはなんのその!スタッフはみんな生き生きしていました。低迷なんて感覚は全く無かったです。ただ、まさか自分が映画を撮れるなんて思ってもいなかったですけどね。『無能の人』(91)を撮って、『119』(94)を撮って、『東京日和』を撮ってと、3年に1本くらいのペースでコンスタントに撮ることができて、誰もが皆、僕の味方をしてくれてるような気がしました。みんなの思いが【映画を作る】と言うことだけに突き進んでいましたね。そして数字は一切気にしないという(笑)。劇場から「今日のお客さんは何時の回に何人入った」という数字を送って来られたことがあって、「俺いらない!それ嫌だ、もう絶対嫌だ!」と見なかったことを覚えています(笑)。そんなものぼくは知りたくないです。


岩井:自分は深夜ドラマを10年ぐらいやっていて、ずっと学生のノリで作っていましたが、特に何も言われないし、縛りも制約もなく割と楽しくやれていました。それで十分満足しているような感じだったところに、映画の話が来たんです。でも「映画って何を撮ったらいいんだろう?」と。それで最初に企画したのが『スワロウテイル』(96)でした。どういう映画を撮ったらいいんだろうと考えた時に『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』(84)みたいな壮大なやつを想像しちゃったんですよね(笑)。それが自分にとって初めての映画へのトライでした。逆に『Love Letter』は最初テレビ企画だったんです。テレビはもうだいぶやってきた中での一作だったので、たまには変わったことをやろうと、小津安二郎のパロディみたいなものを考えていました。企画書には白黒と書いてあるし、小津風な感じでお見合いも出てくる。でも番組枠側のプロデューサーは「普通のゴールデンだぜ。こんなの出来ないよ!」と。企画を持ち込んだプロデューサーの石原隆さんが、何とか説得しようとしたけど結局ダメで。そしたらもう、その足でフジの映画部に企画を持ち込んじゃった。石原さんが「ちょっとこれさ、映画部でやらしてほしいんだよね」と伝えると、深夜で一緒にやっていた小川晋一さんという映画部のプロデューサーが「わかったわかった」と言ってくれて、そこで映画をやることが決まったんです。そんな感じで、自分の中では映画とテレビの境界線が無く、最終的には『Love Letter』を先に、次に『スワロウテイル』という順番になるのですが、そこはナチュラルに移行できたなと。ただ、映画デビュー作で、白黒の小津のパロディをやるわけにはいかないぞと(笑)。そこからいろいろと作り直して、『Love Letter』はあの形になったんです。



『Love Letter 4Kリマスター』©フジテレビジョン


Love Letter』公開の年がちょうど映画100周年で、ロックウェルアイズという会社もそのときに立ち上げました。そのときに一応スローガンを考えたんですよ。もしそのとき初めて映画がこの国に輸入されてきたとして、「これは何だ!?」と思ったら、我々は一体何をするのか、そこに立ち返ろうと。当時はすでに『ジュラシック・パーク』(93)も作られていましたし、もうありとあらゆることが先人たちによって成されていた。そんな世界で何か新しいことはできるのだろうか。もし一度全てをゼロリセットして、初めて映画を観てそれが面白かったとしたら、自分でも作ってみたいと思うだろうなと。それで作ったらやっぱりみんなに観てほしいだろう。そういうスローガンを立てたんです。すごくプリミティブなところに一度自分たちを戻したんですね。当時一緒にやっていたロボットという会社も映画は初めてだったので、映画を作るということに対して、すごくワクワクしている感じがあったんですよね。これからいろんなことが出来るんじゃないかと。


Q:お話を伺っていると、90年代は新しい時代への過渡期だったような印象を受けます。


竹中:その辺のことは全く分からないです。ぼくは自分が撮りたいと思った映画に誰かを巻き込むことしか考えてなかったです。プロデューサーの奥山和由さんから「そんなに映画が好きだったら監督すればいいじゃないか。1億出してやるよ」と言われて。その一言で『無能の人』にたどり着いたんです。最初は「誰がこんなの観るんだ?」なんて言われていましたが奥山さんは「好きにやっていいよ」と言ってくださいました。


岩井:確かに。原作は読んでいましたが、でも映画にするとしたら…って感じの漫画ですよね(笑)。


竹中:初監督映画の撮影中は毎日が夢を見ているような感じでした。『無能の人』が完成した後、テレビドラマの撮影で小樽に行った時、旧式の消防自動車が海岸線を走っているのを見て、火事の起こらない街の消防士の物語を作りたいなと思い『119』という映画を撮りました。それから『東京日和』ですからね。自分が撮りたいと思ったもの、それに反応してくれる共犯者を作る感じで映画を作っていました。今この時代にない何か、新しいものを…!とか考えたことなんか全くなかったです。




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